理想は「支援」という概念の消滅

障害者なり高齢者なり難病者なりの「支援」には人それぞれの思い入れがある。「『支援』が蛇口をひねったら水が出てくるくらい当たり前のものになってほしい」という支援者もいれば、「『あなたの手は必要なくなりました』と卒業していってほしい」という支援者もいる。

私は支援を受ける側であるが、何らかの支援が無ければ日常生活を送ることが難しいのが実情である。発達障害に相当に詳しい人に適切な訓練をしてもらうことで支援から卒業できる可能性はあるのかもしれないが、そのような人は地元にはいない。そして地元で受けられる範囲の支援では卒業できるようなスキルが自分に身につくとは思えない。自分なりの工夫をするとしても、生活スキルを上げていくには年単位、あるいは十年単位が必要であろうと思う。35年自分なりに生きた程度では、自力で人並みの暮らしは送れないのである。

そういう私にも「支援」のあり方への理想がある。それは「支援」という概念が存在しなくなることだ。

年を取れば誰でもなりうる「老眼」や「難聴」、あるいは若かろうともなりうる「近視」などを例に考えようと思う。老眼の人のために室内を明るめにしたり書類の文字を大きめにしたり、難聴の人に声をかけるのに大きめの声にしたり、近視の人が遠くのものを見づらいときに口頭で説明してあげたり、というような「支援」経験を持つ人は少なくないだろう。それを「支援」だと思うだろうか。思わないのではないだろうか? おそらくは気配りの範疇、もしくは「お手伝い」程度ではないだろうか。

私の言いたいことはそういうことで、「支援」という特別に重たい負担ではなく、個々のニーズに対する「気配り」程度の軽い負担にならないかということだ。

障害者支援というと特別な知識や経験が確かに必要であるし、それは高齢者や難病者の介護などでも同様だと思う。気配りで済まされる問題とは思っていない人も数多いと思う。私も今の社会ではやむを得ないことと思う。

だが、遠い将来、もしかしたら私はもう生きていない頃にでも、人それぞれの個別のケースに配慮することが当たり前となり、「支援」という特別扱いがなくなってほしいと思っている。

支援を受けなければ生活が難しい側からすると、「支援」はありがたいものであるのと同時に、「優秀な人が劣った人に提供するもの」というような感覚を抱いてしまうのだ。自分が「人に手助けされなければ生活がままならない『人未満』の存在」のような気がしてくる。障害者を見て特性だ支援だと騒ぎ立てる社会にも嫌気が差す。まるで珍獣扱いされている気分になるのだ。「障害者が暮らしやすい環境を特別に整えること」と「動物園で動物一種ごとに檻を作って世話をすること」が似たようなものに思えてしまう。劣等感が強いせいで極端な考えを抱いているのかもしれないとは思うが、今の社会の障害者の扱いには生きづらさを感じる。

老眼やら難聴やらのような目立った特徴でなくとも、「このような配慮を受けたい」と希望することは人それぞれあるはずだ。「何時以降は電話連絡を控えてほしい」とか「メールの返信は3日以内にほしい」とか「突発的な予定入れないでほしい」とか「近所のスーパーで特売があったら必ず教えてほしい」とか。配慮してほしいことが互いにあるのが前提であり、互いに配慮し合う一環として、障害への配慮もそこに含まれるようにならないものか、と思うのだ。

なんだか「支援をする」というのは一方的なものに感じる。「一方的にお世話してあげる」と「一方的にお世話してもらう」では人間関係は成り立っていないと感じる。人間関係はギブアンドテイクとよく言うが、一方的にお世話すればギブオンリー、一方的にお世話されればテイクオンリー。職業として支援する人と、支援サービスを利用する人との関係ならそれでいいが、社会生活としては望ましくないと感じる。「できる支援はするができない支援はしない」「必要な支援は求めるが不必要な支援は断る」ということが互いに必要なのではないか。

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