己という「フラスコ」を透明に保つために、いったい何ができるだろうか。日々の澱を洗い流し清潔な布で磨き、それぞれの苦痛を甜め尽くしつつも、かたや割れぬようにそっと大切にも扱わねばなるまい。汚濁を注いでは覗き込み、観察思考し書き留め、そしてまた自らの手で浄化する。時には、美しい水も。

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