見出し画像

「性的同意」ロジックは性交を脱神話化する(前編)


まえがき

この記事は「性的同意」について最近ふと気づいたことを忘れないうちにとりあえず書き留めておいたものです。なので実はそこまで主義主張はありません。

「性的同意」は「発見」か「発明」か


「発見」と「発明」


あなたは「発見」と「発明」の違いを考えた事はあるだろうか?
なんとなくだか、ある、という人は多くない気がする。それどころか、両者に類似点を見出すことすら無い人もいるだろう。

しかし、「発見」と「発明」の区別が容易でない瞬間は、確かに存在する。

例えば、「数学」はどちらにあたるだろうか。
三角形の斜辺の長さの二乗が残り二つの辺の二乗の和に等しいなどは、自然界に隠された法則の「発見」と呼べそうだ。
しかし、虚数や、虚数の存在を前提としたオイラーの公式などはどうだろう?虚数は自然界に存在すると言えるだろうか?オイラーの公式は物理にも応用されている為、これは人間が文明を発展させる為の「発明」とも捉えられる。


このように、「発見」と「発明」の区別は意外と難しい。

一応、「発見」と「発明」の言葉としての使い分けを下に載せておく。

性的同意は「発見」と「発明」のどちらにあたるだろうか?
これを考えてから、この先を読んでいただけると嬉しい。
(しかしこの例はなんともタイムリーな……)

発見とは、すでに世の中に存在しているが、みんなが認識していないものを初めて見つけることです。

例)コロンブスがアメリカ大陸を発見した。

発明とは、この世に存在していないものを個人の工夫で初めて創り出すことです。

https://www.med.tottori-u.ac.jp/hatsumeigaku/difference.html

「性的同意」って何?

「性的同意は『発見』か『発明』か」を考える前にまず、性的同意の定義を確認しよう。

性的同意は、性的な行為に対して、その行為を積極的にしたいと望むお互いの意思を確認することです。性的な行為への参加には、お互いの「したい」という “ 明確”で“積極的な意思表示”があることが大切です。

https://pilcon.org/help-line/consent


上記サイトによると、性的同意は確認をとるという「行為」である。
この定義に従うと、「性的同意」は望まない妊娠や性暴力を防ぐ為のツールとしてこの世に新しく生み出された「発明」に見える。

しかし、事はそう単純でない。同サイトには、このような性的同意の定義だけでなく、以下の文言が記載されている。

Q. これまで同意を確認しないでしてきた性行為は、性暴力だったということ?
性暴力だった可能性はあります
(中略)
性的同意という考え方について、もし今も相手と話し合えそうだったら聞いてみてはどうでしょうか。

ここでは性的同意は考え方、と表現されている。考え方、マインドセットもまた、より良い生の為の「発明」品の感がある。
しかし、性的同意が本当に「発明」品でしかないのなら、この文章のように現在だけでなく過去にまで遡及し、出来事の本質をガラリと変えてしまう力を持つものだろうか。

性的同意はその定義からおそらくは「発見」だろう、という推論に疑念が生じる。

「性的同意」の無い世界

思考を整理するために一度、「性的同意」が存在しない、必要とされない世界について考えてみる。

それは恋愛系フィクションの形で既に世界中にありふれているから、私達は思考実験として個々人の想像力を働かせるまでも無くそうした世界にアクセスできる。

フィクションのクライマックスシーンやそれに準ずるシーンでは大抵、愛が受け入れられた証明として性的行動(これは作品の年齢制限ラベルによって中身が変わる変数のようなモノ)の成就が為される。そこでは互いの意思を確認することはあまり無く、あったとしてもえらく性急なものになる。


そしてこの「成就」というのがキモであって、話の山場になって

「今日はお腹が痛いから」とか
「さっきラーメン食べたから」とか、もっと言えば
「自分はアセクシャルだから」

と言った、「愛」以外の理由による行為の拒否は存在しない。

しかし、これは作劇的な「映え」の都合を鑑みず、ロジックだけに注目すると少し座りが良くない。

なぜなら、愛という感情を証明したいのならば、互いの「思い」が存在していれば十分であり、「思いを果たす」という表現にもあるような行為の「成就」の部分は必ずしも必要で無いからだ。


「お見舞い」シーンと「性的同意」と

しかし、このようなフィクション世界の中にも(限定的ではあるが)性的同意と、体調不良の両者が戦いを繰り広げる瞬間が存在する。
それは恋愛系漫画でよくあった(今もあるのだろうか?めっきりラブコメを読まなくなってしまったので自信がない)「お見舞い」シーンだ。



パートナー(または主人公)が風邪を引いている、という報せを受けて、主人公(またはパートナー)はポカリスウェットやリンゴを持って相手の家に向かう。
そして5〜10ページほど会話をした後に、
「風邪が移るかも」
「自分は気にしない」
といったセリフと共に性的行動が実行される。

こういったシーンの興味深い点は、
風邪を引いている側からの相手に対する
「相手が自分のせいで風邪を引くかもしれない」
という懸念に対してはほぼ確実に同意が取られるのに対し、
風邪を引いている側への
「相手は気分が優れないのだから、今はとてもそんな気分ではないかもしれない」
という、ごく自然な懸念に対しては殆ど触れられない点である。

この二つの可能性の差はなんだろうか?主人公あるいはそのパートナーは多くの場合、思いやりに溢れた優しい人物として描かれている。そもそも優しいから、風邪を引いた相手の家を訪ねているのである。それなのになぜ、唐突に相手の体調への気遣いを放棄するのだろう。こういったシチュエーションに特有の、背徳的な演出の一環なのだから、そこに突っ込むのは野暮なのだろうか?
だとしたらなぜ、「これから風邪を引くリスク」には予め言及されるのだろう?

この矛盾を解決するのは「愛=性的行動」という法則への、登場人物間のというよりフィクション世界全体の強烈な信仰心が存在する、という仮説である。


主人公と相手の間には
「相手は自分が好き=自分と性的行動がしたい」
というコンセンサスが存在している。風邪を引いた程度の体調不良では、このコンセンサスは揺らぎようが無い。必然的に、体調不良による体力やメンタルへの影響は無視される。そのため、
「今風邪を引いていて、気分が優れないのではないか」という点に対して同意を取る必要は無いのではないか。
また、もう一つの論点である
「風邪を引くかもしれない」

「風邪を引くかもしれないけれど 不快ではないのか」
(性的行動への志向性の有無)
では無く、本質的には
「風邪を引くかもしれないけれどそのリスクを飲めるか」
(志向性はリスクへの懸念に勝るか)
を尋ねているのではないか。
互いの性的行動への志向性が存在する前提では、

「今風邪を引いていて、気分が優れないのではないか」
「風邪を引くかもしれない」

のうち志向性の有無を確認する前者は省略可能であり、リスクとの兼ね合いを問う後者のみが残ると考えて矛盾しない。

リスクを踏まえてどう思うかは別として、性的行動を望まないなんてあり得ないのだから。
そう、性的同意の(殆ど)存在しない、必要の無い世界とは、性的行動への本質的な拒否が存在しない世界なのだ。

フィクションの世界とは、性的行動に対して実質的に「YES」しか許されないディストピアだ。

「性的同意」の本質

再び現実世界へと戻ろう。我々の世界には
2016年まで「性的同意」という言葉は存在しなかった。
もちろん、今で言う「性的同意」に相当するようなやり取りはあっただろう。とはいえ、定式化された概念としては存在し得なかった。
そして「性的同意」が出現した後の世界は、それ以前の世界における性的行動に、それが「暴力」であった可能性を積極的に投げかける。


お前たちは「嫌だ」と言う声を無視したのでは無いか
言葉できない「嫌だ」を見過ごしたのではないか


「性的同意」はこうした「拒否」の可能性を強調する。
「拒否」の無い世界とある世界の特異点となるのが「性的同意」だ。
つまり、「性的同意」の本質は、望まない妊娠や暴力行為への単なる注意喚起では無く、「性的行動を拒否する意思」の発見なのだ。

この意味で、「性的同意」は一つの発見どころか、世界観そのものでさえあると言える。

冒頭のサイトでは「性的同意」は手続きであると言われているが、私の考えはやや異なる。

「性的同意」とは「性的行動を拒否する意思」が存在する世界に不可欠な手続きであり、その存在自体が「性的行動を拒否する意思」を認識し、承認したという証左なのだ。

そして「性的同意」を行うことは、「性的行動を拒否する意思」という人間が当たり前に抱きうる感情や思考を承認し、尊重するという人間として当たり前の行動なのだ。

ネット上では「性的同意をどうとればいいのか分からない」、「あとでいくらでも訴えられるのではないか」といった形の性的同意に対する否定的・懐疑的言説をしばしば目にする。
そうした意見をもとに、性的同意を保証する(?)アプリや契約書などが作られたこともある。

私はそういった主張を、取るに足らない詭弁とは思わない。
これらは結局、「性的同意」をこの世に全く新しく表れた煩雑な手続きとして理解するならば、ごく自然な思考の成り行きであるとすら思う。
そして、「性的同意」の表層では無く、その背後にある「性的行動を拒否する意思」に注目すれば、「紅茶を飲む意思」をアプリや契約書で保証することと同じくらい、「性的同意」をアプリや契約書で保証することは不可能であり、不毛であり、だからこそ当事者間や社会が積極的に「性的行動を拒否する意思」を尊重することが「性的行動」そのものにも必要だと誰もが分かるだろう、と言うと少し楽観的過ぎるだろうか。

私はかつて、かの有名な性的同意を紅茶で説明する動画をその秀逸さ故に性的同意というプロパガンダの優れたプロモーション、つまり「性的同意を紅茶に置き換えることで巧みに性的同意を紹介する動画」だと受け取っていた。
そして紅茶は、単に二者間のコミュニケーションが生じる状況に登場するアイテムとして、一つの例として選出されたにすぎないと捉えていた。

しかし、これは半分正解で、半分誤認なのだと今は思う。
本当のところあの動画は、「性的行動」と「紅茶」は同じだ、「性的行動」だけが「NO」の存在しない聖域などと言うことはあり得ない、と訴えているのだ。

こうして「性的同意」は「性的行動」を脱神話化していく。

こうして現実世界と脱神話化された「性的行動」は時代と共にまた新しく姿を変えていくだろう。

しかし、「性的行動」の超越性、魔術性を失なった「神話」の方はどうだろうか。
あの性的行動への「YES」を強制するディストピアは、現実の人々の苛烈な批判に晒されながら、現実よりも早く次なる姿を見つけ出さねばならない。
そしてそれは一体どのような姿なのだろうか。


(続く)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?