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ESSAY ひとすじの銀の声

もう何年も前の話であるが、書き留めておきたいと思っていた話である。


 O君は中学二年生である。
TOKYO FM合唱団は日本でも数少ない小学生男子だけの合唱団である。そしてO君は、その合唱団のOBである。

 O君は、小学校2年の時TOKYO FM合唱団に入った。団の中では飛びぬけて美しい声を持っていた。
六本木男声合唱団は初めウィーン少年合唱団の一人をソリストにとしていた。だが、O君はウィーン少年合唱団に依頼する必要もない「天使の声」を持ち、小学校5学年から毎回演奏旅行に同行している。

 小学校6年でFM合唱団は卒業である。だがこのソロを代わって歌いこなす子どもがいないので、OBになった今も公演に同行している。
最近、正規の団員の小学生の男の子が予備要員でついてくるが、O君がインフルエンザで高熱を出し、立っているのがやっと、というくらいでは、代役がソロを務めることはない。

 子供の声というのは、同じ「声」と呼ばれながら、大人のそれとは異質な波動を持つ。どんなに遠いところからでも、くっきりと聞き取れ、か細くても圧倒的な印象を与えることが出来る。
 感情を込め顔を歪めて歌う歌い方は似合わず、まっすぐ考えることもなく出した声は、清潔で、清楚で、人々の心を無条件に満たし、悔悛させるほどの力を持つ。
 小さくて細い声帯という楽器が奏でる最上級の音楽の響きは、やすやすと聴くものの心を捉え、天上界に導く。どんな世界一のテノールもなしえない業を軽々とやってのけるのだ。

 朝食にモナコエルミタージュの食堂に降りていったら、O君と会った。一緒にいるのは、母親とヴォイス・トレーナーとTOKYO FMの理事。食堂と言うのかダイニングと言うのか、ホールと言うのか、私の目には舞踏会の会場に思える場所が朝食用食堂である。ないものはなく、見た目も広さもテーブルるのしつらえも、パンもハムも飲み物も、バルコニー越しに見える海の風景も、すべてが超のつく一級品で、文句のつけようがない。

 ミシュランに勤める友人が言うのだが、その昔、タイヤを売り歩いていたミシュランの営業マンたちが、各地に宿泊して、あそこはいい、ここもいい、とメモしていた自分たちのための情報を、旅行者に提供しようと、ホテル、レストランの格付けのハンドブックを作った。それが、今、レッド・ミシュランと呼ばれているものの始まりと言う。
 その頃、私は「三つ星」と「五つ星」の区別がつかず、ホテルが五つ星ならレストランもまたそれに順ずるのかと思う程度の理解で、そういう人種は、猫に小判、三つ星だからと言って、星の数にそれほど有り難味も感じないのであるが、ただ、ここは、何だか分からないけれど、やたらと食べ物がおいしいわね、という感動はした。

 O君が皿を持って、立っている。「これ、おいしいよ」と声をかける。「はい」と遠慮がちな返事が返ってくる。「食べないの?」「ええ、僕、今、いいです」。

 私もぼんやりだったと思う。もともと何でも気がつくのが遅い。そのことを知ったのは周りの人がそのことを知って半年くらい後。ひどい時は誰でも知っていることを知るのに3年くらいかかることもあるから、まだ早いほうかもしれないが。

「だめよ、勧めたら」と隣の奥様に言われて、はっとした。
 O君のお母さんは彼の健康管理をするために来ている。ヴォイス・トレーナーは声を管理する。つまり、彼がいつまでも子供でいつづけられるよう、お母さんは彼が成長しないよう育てる命令を受け、努力をしている。
 ヴォイス・トレーナーは毎朝発声練習の時、耳を澄まし、彼の声に大人の響きが入り込んできていないか、チェックする。理事は、お母さんやヴォイス・トレーナーが、子ども可愛さに、ほんのちょっとなら、と甘い気持ちにならぬよう監視している。
 だからO君の食べるものは、ほんの少しのパンと野菜だけである。肉・魚類はだめだという。
可哀想に。
 そして、ひょろりとした体型、中学2年生にしては小柄なわけが、つまりそういうことの結果だと知った。胸が詰まった。体の成長を遅らせることで声を保っている。
 かつてのカストラートは男を捨てることで美しい声の高さと響きを保った。だがそれも、パトロンなどの言いなりで、決して彼らの意思ではなかったろう。

 モナコから帰った後、凱旋公演なるものが、初台のオペラシティの武満メモリアルホールであり、彼はその時も無事にソロを歌いきった。コンサートが終わった後、ロビーで友人たちに囲まれて話をしている彼を見た。周りの子供たちは同学年であろうが、もうがっちりした男の体型の子もいたし、うっすら髭の生えた子もいた。

 その二ヵ月後、軽井沢大賀ホールでの軽井沢音楽祭の時、私は18歳ほどのボーイッシュな少女が団に加わっているのを見た。

「O君、いないけど、どうした?」
「ついに、ですよ」。

 それは、私の心を心底安堵させる答えだった。
O君は声変わりをしたのだった。
よかったね。O君、もう食べていいんだよ。大きくなりなさいね。
「一週間くらい前から調子が悪くてね。だけど代わりが育っていない」。

 少女もヴォイス・トレーナーが別合唱団で育てているシンガーという。いい声である。
だが、同じ曲は、物足りなさばかりが残った。
 いい声で、癖がない、と言っても、18歳の女性は、もう声の中から彼女の性別と性格をぬぐうことが出来ない。
 少年の何も考えないストレート・ヴォイスは、天上の響きをそのまま地上に降ろす。どうやってもそのままにとどめることが出来ない声、失われるのが運命の声、代わりのボーイ・ソプラノを待つしかない。
大賀ホールでの演奏会以後、六本木男声合唱団は「天涯」の演奏を一度もしていない。

***

 今年(2024)に入ってから、築地の本願寺での演奏会で、この曲のソロを務めたのは、日本でも最近引っ張りだこのカウンターテナーの男性だった。折り目の正しい明るい、いい声である。非の打ち所がない。彼がもてはやされるのも分かる。

 だが、O君の歌う声とは世界が違う。私は、O君が歌ったそんな世界に過去の一時でも身を置いた幸せを思った。
 もしかしたら、そのカウンターテナーの男性は、成長したO君なのかも知れない、と突飛な空想もした。

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