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雑記 253 戸口の蟋蟀

晩秋。
確かに晩秋。
朝晩の冷え込みが、肌に季節の移ろいを感じさせる。

先週月を見るために、やや遅い時間に玄関の扉を開けたら、玄関前の植木鉢のあたりで、1匹のコオロギが細々と鳴いていた。細々ではあるが、全力を振り絞る高々とした音色。
リーリ、リーリ、リーリ……。

幼い頃育った家の坪庭で鳴いていたコオロギと同じ音色で、昔も今も変わらない切なさが漂う。

毎年、初夏の頃、駅のホーム下や、野原や、我が家の庭で、沢山のコオロギが鳴き始める。

虫の音は秋のもの、という印象があるが、実は夏の始まりには既に鳴いている。

夏祭りや盆踊りの帰り道、暗闇で、コオロギの音。オケラの「ジイィィ〜」という乾燥した鳴き声も生暖かい空気に包まれて聞こえ、虫たちは短い青春を謳歌するが如く、命の限り鳴く。

盛夏を越す頃、コオロギは家の軒下や縁の下で鳴くようになる。

草むらで塊で聞こえて来ていたコオロギの音は、お盆を越した頃から段々に減って、秋に入ると、鳴いている数が数えられるほどに減る。

さらに秋が深まり、霜降の頃になると、生き残ったはぐれコオロギが、1匹で、

冬が近いぞ、
冬籠りの準備は良いか、 

と言うように、家のごくごく近くに来て鳴き、

玄関の扉を開け閉めをする時にも、
その澄んだ音色は耳につく。

田舎屋で有れば、真夜中台所の片隅で音を聞くこともあるだろう。

季節の移ろいを、虫の音や蝉の声で感じ取る。
こう言うことができるのは右脳で音を処理する日本人だけ、と言う。

以前パリ祭の頃フランスに行った時、地下鉄の駅では、どこの駅でも、ホーム下でコオロギの鳴き声がしていた。

パリも日本と同じコオロギがいるのね、

と言うと、あちらの人は、

何の音?
季節の音?
郷愁?
生きていることの実感?

とまるで理解が出来ないようだった。

雨にしても、日本語にはたくさんの表現があり、
小糠雨、霧雨、時雨、秋雨、秋霖、、、
日本という国の民族の感性は、他の国とは異なり、特異なものであり、多彩なものと言えるだろう。
一人称「私」にしたって、私、わたくし、僕、俺、吾輩、それがし、おいら、、、
言葉の豊かな良い国に生まれたものだ、とつくづく思う。

先週の木曜日の雨と寒さのせいで、今年のコオロギも役目を終えたのだろう。
以後、細々とした虫の音もパッタリと聞こえてこなくなった。

明け方になると、星が一つ一つ、明るんでくる空の青さの中に消えて、その代わりに、
鋭い鳥の囀りと、羽音があたりの空気を切る。
烏が鳴く。

季節の移ろいばかりではない。
人生もまた移ろい、終わりの準備をしなさい、とコオロギは言って、去ったはずだ。

今年は夜通しどこかで救急車が走っているような気がするが、そう感じるのは私だけだろうか。

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