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ESSAY インヴィテイション

 これも昔の話。

 F1グランプリが近い。

後ろにF1グランプリの横断幕

 私たちが行ったのは、5月の初めで、レースは5月27日であった。歓迎の横断幕はすでに張られていた。
ピットやスタンドの建設で、街のあちこちが工事中だった。工事の車両をみて、VOLVOだ! と驚嘆する。
 ドイツに行けばタクシーがMercedes-BenzかVolkswagenで、イギリスならJAGUARかRolls-Royceであっても、文句はないはずだ。確かにそうであるが、モナコではショベルカーまでVOLVOか、と何だか羨ましい気分になる。

 街路樹はレモンツリーだろうか。黄色い紡錘形の果実がなっている。

 ホテル正面を出て、車が行き交う道を渡り、まっすぐ細い道に入ると両側にブランドショップが並び、先が広場になっている。その広場の右手がカジノのあるモンテカルロ歌劇場。パリオペラ座の設計者ガルニエの手がけた建造物だ。
  道なりに坂を下ってしばらく行くと、グランドホテル・ヘアピンと呼ばれる有名な急カーブがある。コースになる街の道は曲がりが沢山あって道幅は狭く、追い抜くこともままならない。ドライバーの技量と度量が問われるともいい、このグランプリの優勝者は、他のGPの三勝に値すると言われている。コースは歩いてみるとあっという間に終わる。レーシングカーはこのグネグネ道を約2時間、美しい街や海を背景にして、ぐるぐるぐるぐる、回る。

ホテルの天井

 「Célineからインヴィテイションでございます」とメイドがホテルの部屋にインヴィテイションカードを持ってきた。
「夕方5時、パーティーを開きます」とのこと。

 Célineに何を着て行ったらいいの?
やっぱり普段着じゃまずいよね、せっかくドレスを持ってきたんだから、じゃあ、ドレスでね、と、奥様方女性陣の意見調整が出来、時刻が近づいて、シャワーを浴び、ドレスに着替え、化粧をする。夫たちは相変わらず演奏会直前の追い込み練習で不在。

歌劇場での練習風景

 娘が、仕上げはこれよ、と言って、七色の粉をはたいてくれる。私は化粧をほとんどしないので、化粧品の数々を持っていない。粉のお陰で、いくらかマシに見えるかも、と鏡を覗く。

 さあ出かけようという時、娘が「あっ!」と声を上げる。「靴忘れてきちゃった」。
「えっ!」と絶句。娘のドレスはシルク。スカート部分は薄い布の重なりで、膝下丈。バレリーナ風である。靴を日本に忘れてきた、と言う。
 私はイブニング。どうする? 仕方ない、私のきらきらのパーティー用の靴を脱いで、これ履いて、と差し出す。うん、ありがとう、でもお母さん、何履くの?
 私のイブニングのスカートはパニエがなくても広がりがある。裾は床丈。裾が床からわずかに上がって、靴先がちらりと見えるのが正しいのだが。

「仕方ない」。ああ、もうこの言葉を、この娘と一緒にいて嘆きとともに何度言ったことだろう! 
 ウォーキングシューズを履いた。パーティ用の靴は8センチのヒールだったから、ウォーキングシューズの踵との高さの差の分、足は短くなり、大股で裾を蹴って歩かなければ、靴の先は見えない、はず。
 だからシンデレラみたいに、両手でスカートをつまみあげる動作はなし。あの仕草は女らしいから一度やってみたかった……。
 歩きにくい靴を脱いで、足は快適だが、気持ちは快適でない。いつ、見られてしまうかという不安がある。宵闇が近づきつつあるが、店は明るいに決まっている。

 店は、カジノ広場に行く途中にある。いつも通り、正面玄関を出て、道を渡り、先の細い道に進み、その左側。
 店に入ると、シャンペンの栓が軽やかな音を立て、何個も飛んだ。店の商品が並べられてあるガラスケースの上に、シャンペングラスとサンドウィッチが乗せてあった。直径20センチはあるかと思われる丸いパンが、薄くスライスされ、間にハム、トマト、チーズと、段ごとに異なった具が挟まれている。ちょうどクレープを何層にも重ねたケーキのように。そしてそれが放射状に切ってある。
 お手拭きを探したがない。一瞬、これを食べた手で商品を触るのか、と怖気づく。食べた手を各自適当に拭いて触るしかない。服からバッグ、時計、財布、今年の夏はこれ、と、誘うように並べてある。

セリーヌの店内

 私は、買い物が不得意である。欲しいと思う感情がなかなか起こらないからである。服も、よほど着るものがなくなるか、必要が生じなければ買わない。それでも、時に心動くことがある。すると、もう一人の自分が耳元で囁く。同じようなもの持ってるじゃない? 本当に必要? 結論は、大抵「そうね、いらないわね」となる。

 でも、ここでは何か買わなくては悪いような雰囲気である。値段を見て、びっくりする。淡青色のカーディガンが20万円していた。家庭画報の世界が本当にある。陳列してある商品のうち一番安いのはいくらかな? と見たら、定期入れが6万円だった。
 もちろん同行の一部の女性たちはカードを出し、あれこれ買っていたので、ああよかった、私が心配することでもない、と胸を撫で下ろした。
 小パーティーの間中、立っても座っても、ドレスの中で膝を曲げて裾が床から離れぬよう、足がうっかり出ぬよう注意して過ごした。店を出る前に夕立があり、帰りには路面が濡れていたが、かまわず裾を引きずって帰った。いつもの自分だったら汚れることを気にしてスカートをたくし上げて帰ったろう。でも何だか疲れてしまい、どうでもよくなった。イブニングなど日本に帰ったらもう着ないのだし。

 翌朝、またメイドがドアを叩いた。パステルカラーのマカロンの詰め合わせと昨日の店での写真が届いた。マカロンというお菓子を初めて見たのもこの時だった。ふうー、靴は写っていない! 写真を見るたび、履いていた靴のことを思い出す。

バルコニーから見たホテルのダイニング





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