ワかヤワラギか

 十七条憲法解釈のイデオロギー性を考える


十七条憲法と和の思想

 日本的な共生思想のあり方を和という文字で表すことが、いつから始まったのかは今後の研究課題であるが、「和の思想」と「十七条憲法」の冒頭の第1条を結びつけて理解する、あるいは解説することの起源を探求することも、さらなる研究がまたれる。が、しかし少なくとも現在のように両者を結びつけて解説、死有りその本文を引用する原型とも云えるものは、明らかに「国体の本義」の第一、「四の和と「まこと」」における引用法と関係があるように考えられる。この「国体の本義」では、十七条の憲法の冒頭を「和を以て貴しとなし、忤(さか)ふることなきを宗(むね)と為す。人皆黨(たむら)有り、迹達(さと)れる者少し。・・・」(53ページ)と引用している。
 現代人の我々の感覚では、全く不自然とは思われないのであるが、しかし、この引用には、文献を引用する際の基本的な姿勢に大きな問題がある。しかも、このことは現在に於いても全くといって良いほどに考慮されることが無い、ように思われる。
 では、何処に問題があるのか、ということである。
 実は『日本書紀』(岩波文庫版)では「和(やはら)ぎを以て貴(たふと)しとし、忤(さか)ふこと無きを宗(むね)とせよ」となっている。この『日本書紀』の訓読が、果たして聖徳太子の時代の読みであったかどうかは分からないが、しかし、遅くとも弘仁の時代には、このような群読が付されたらしい。また岩波文庫の開設に依れば奈良時代には「すでに日本書紀の購読・加注の行われたことは、もはやうたがうことはできない」(漢語567ページ)というわけで、古くからこの部分を含めて「日本書紀」は、訓を付けて読む習わし、伝統があった。それを無視することは古典の研究では、やはり正しいことではない。(更に詳しく述べたいが次回以降)
 そこで、この違いを訓読で湿してみよう。
 先ず『日本書紀』では、「やはらぐをもてたふとしとし、さかうことなきをむねとせよ」となる。一方『国体の本義』では「わをもてとおとしとなし、さかふことなきをむねとなす。」となる。「国阿智の本義」の訓読は筆者がつけたものであるが、恐らくこれで良いであろう。
 両者の書き下し分のちがいにおいて助詞的なものの読みは、多少の相違はあるが意味はそう大きく異ならないので、ここでは置くとして、ここで注目したいのは、和に関して伝統的には「やはら;ぐ」と訓で読んでいるのに対して、「国体の本義」では、「わ」と音で読んでいることである。
 このように平仮名で書き直してみると、大和言葉といわれる漢字以前の言葉の体系の一端を訓読みにより垣間見ることが出来るのではないだろうか?つまり、日本人はそもそも漢字という外来文字と、その読みや意味体系とは別に、独自の言葉体系を持っていたはずである。そして、彼らにとっては近現代の日本人の漢字耶蘇の意味(日本化しているとは云え)の常識とは必ずしも一致しないものがあったはずである。というより、我々の先祖が、漢字やその文明を受け入れるために、すさまじい努力をして今日の日本語化した漢字の用法が生まれたのである、がその伝統が出来る前の「十七条憲法」を、当然の如く現代的に読み太子の思想や意図を論じることは、思想研究としては飛躍である。しかし、それが為されてきたのが、「国体の本義」以降の引用法である。
  ここには、和は既に日本の独自思想として定式化されており、それを遡って「十七条憲法」に引き当てるという、非常な危険で乱暴な議論が為されている。そして、聖徳太子は日本の軍国主義化の片棒を担いだというような批判が後に生まれるのである。
 この点は殆ど見過ごされているので、あえて今回指摘して。次回から細かく検討してゆきたい。(現時点で、図書館が閉鎖されており、昭和以降の太子の引用などが確かめられないので、取りあえず昭和12年の「国体の本義」を霊にしているが、更に古くて、大きな影響を与えた書物などがあれば、探したい。ただ、「聖徳太子奉賛会」の設立同時の記録に渋沢栄一に援助を求めると、渋沢は水戸学や国学の影響を受けており、その知識から一度は拒否したという。しかし、説得の末に、太子の偉大さを知り、却って熱心に奉賛会の設立のために尽力されたというこのように、聖徳太子の明治期・大正期の評価は、仏教という邪教を日本に広めた張本人的な、国学的評価が多かったことは、先ず抑えておく必要がある。)