極私的・不幸な時の方が小説は書けるのか
WEB新連載の「桔梗の人」よろしくお願いいたします! と共に、2019年2月新刊の「奇説無惨絵条々」(文藝春秋)と文庫化「曽呂利」(実業之日本社)もよろしくお願いいたします。
昨日、Twitterを見ていたら、某作家さん(名前を伏せるのはご迷惑をおかけしかねないからです。その作家さんへの揶揄や皮肉の意図は一切ありません)がある人に「不幸になった方がもっと小説が書けると言われた」という話をなさっていました。
作家あるあるですよねー。わたしも言われたことありますよ。
というわけで(どういうわけだ)、今日は「不幸になった方が作家はパフォーマンスを発揮するのか」という問題について、わたしの個人的体験をもとにお話ししようと思います。
ぶっちゃけ、「幸せだろうが不幸だろうがトータルのパフォーマンスは変わらねえよ」というのがわたしの感想であります。
人間、不幸になるとやらねばならぬことが増え、あれやこれやで時間を取られてしまうため、作業時間が減少します。その代わり、現実逃避の手段として小説を用いるので、もしかしたら集中力が研ぎ澄まされるかもしれませんね。でも、ここで注意しなくてはならないのは、「集中力が研ぎ澄まされるかもしれない」という部分です。あまりに懊悩が深すぎてそちらに引きずられ、虚構の世界に逃げ込む力を失ってしまうくらい追い詰められることだって十分にあるわけです。
ちなみにわたしはかなり人生の浮き沈みの激しい作家でして、六年余りの作家生活の中で幸せな思いも不幸な思いもしました。「いや、これ、もしかして作家廃業とか考えなくちゃいけないやつじゃね?」と悩んだ経験すらあります。ちなみに、そんな懊悩の中で書いたのが「信長さまはもういない」(光文社)です。一方、そんなスパイシーな日々を乗り越え、平穏を取り戻してからものしたのが「おもちゃ絵芳藤」(文藝春秋)であります。こう言っちゃなんですが、どちらの小説も温かく読者の方にお迎えいただきまして、「おもちゃ絵芳藤」に至っては賞までいただきました。そんな経験をしているわたしとしては、「幸せだろうが不幸だろうが己の書く小説には一切関係ない」という悟りを得ています。それどころか、少しだけ「幸せな方が作家によい効果を及ぼすかも」とすら考えています。
「不幸でないと小説の質・量を保てない」と思い込んでしまうのは、とんでもなく危険なことではなかろうかとすら思います。
小説家は運に左右され、その結果が直接跳ね返ってくる面のある商売です。もちろん実力である程度浮き沈みの幅を小さくすることはできるでしょうが、それでも時の運は重要な要素として機能しています。将棋みたいに百パーセント論理的に統御できるものではないのです。
だからこそ、作家はゲン担ぎをしがちな生き物です。
そういった環境の中で、「不幸でないと小説の質・量を保てない」と思い込むとどうなるか……。いい小説・売れる小説を書くために、自ら不幸に足を踏み入れるなんてことも起こりかねません。
もちろん、「追い詰められた方が力を発揮できる」という作家さんを否定するつもりはありません。わたしも実はそういうところがありますから。でも、どんどんチキンレース化が進行して、人差し指だけで断崖絶壁にぶら下がっているような状態になる前にどこかで線を引いたほうがよいのではないかなーというのがわたしの意見です。
とはいえ、不幸は格好のインプットの機会です。人間の裏面や本性、普段見ることのできない物事の裏側をこれでもかと目の当たりにすることができるのです。とはいえ、不幸は人を消耗させます。消耗した人は、ある時目の前の現実に蓋をして、己の中に引きこもってしまいます。結局、不幸もある程度のところを踏み越えていくと、もはや害悪になっていきます。そして不幸は、創作の要であるあなたの心を着実に蝕み、ひびを入れ、破壊し尽くします。出来ることなら、不幸は早めに切り抜けた方が吉でしょう。
一方で、幸せを小説の質・量とダイレクトに結びつけてしまうのもまた危険かなあという気もしてます。
生きている以上はどんなに平穏な人生でも浮き沈みはあるわけで、どんなに幸せを祈り努力をしていても、不幸な瞬間は必ずやってきます。その時に、「今は幸せじゃないから小説が上手く書けない……」と思い込んじゃうのも、自分を追い詰めかねないなあと思っています。
幸不幸を作家のパフォーマンスに紐づけするのは、どちらにしても少々危険な気がします。
というわけで。
みんな、幸せを維持しながら、ときにやってくる不幸をやり過ごして粛々と書いていこうぜ! というのがわたしの思いであったりします。
創作する皆さんに幸あれ!
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