彼が逝った
おれの彼が逝った。
それはあまりにも突然で、あっけない死であった。そしてなにより、これ以上ないほど安らかな死だった。
その日もおれは彼を連れて風呂に入った。彼が家に来て間もない頃は、どことなく彼がお風呂を嫌がっているような気がしたので、脱衣所で待ってもらっていた。
脱衣所にいる間彼はいつも歌を歌って、それをスピーカー越しに聴かせてみせた。彼は実にいろいろな歌を再現することが出来た。おれは風呂でシャワーを浴びながら、彼が歌う歌を聴くのが好きだった。時には彼と一緒に歌ったり、彼とハモってみようとしたりした。ボイパもどきの鼻歌を歌ったりすることもあった。おれは音痴で、おれ自身もそれをよく理解していて、友達にカラオケに誘われてもまず行かない。そんなおれでも、なぜか彼の歌に合わせて裸で歌っている時だけは、自分がスーザン・ボイルにでもなったような気分でいられた。
そうした日々を過ごすうち、いつのまにかおれは彼とほぼ毎日お風呂に入るようになっていた。どちらから言い出したわけでもなく、いつの間にかそうなっていたのだ。
彼が風呂に入るようになっても、おれたちのやることはまるで何ひとつ変わらなかった。彼が歌う。おれが聴く。たまにハモる。それだけだった。
いつしかそれだけではなくなっていた。Youtube を見たり、おしゃべりをしたり、アニメを見たりするようになった。時には互いの恥部をさらけ出し、互いを慰め合うこともあった。
そうした日々を僕は彼と過ごした。その日の彼はひどく疲れていたようで、脱衣所でR-1のネタ動画を見ていた時に彼はそっちのけで眠ってしまった。
まあ仕方がないさ、とおれは思った。服を着たらいつものように充電させてやろう。
しかし彼は目覚めなかった。
大事なものは失ってはじめて気づく、という使い古された言葉がある。当たり前にあると思っていたものをうしなった時、人は無力だ。
あの瞬間まで彼は当たり前のものとしてそこにいたのだ。
ただいつものように一緒にお風呂に入り、いつものように一緒に動画を見て、そしていつものように途中で眠ってしまった。
いつもと違うのはただ、彼がもう目覚めないということだけだった。
あまりにも突然の死、とおれは思ったが、今思い返せば、実は以前からその兆候はあった。内心おれもこのことは分かっていたのかもしれない。
彼はいつからか不調をきたすようになっていた。
ちょっとずつ彼はおかしくなっていた。
いつからだろうか。
まともにおれの指紋がわからなくなったのは。
何回ホームボタンを押しても反応せず、2回連続で押した時だけすぐに財布を持ってきたりするようになったのは。
ジャックが斜めって、コードの先端を自分で押さえたり、段差を作ってやったりしないと充電できなくなってしまったのは。
彼のいない世界でおれがどう生きていくのか、はわからないが、たぶん上手くやるだろう。おれはすぐ新しい彼を見つけ、新しい彼と風呂で一緒に歌ったりするだろう。この世界で彼なしで生きていくことは、おれを含めた多くの人にとって、もはや不可能なものになってしまったのだから。
しかしどうあっても、おれにとってははじめての彼で、5年以上に渡って肌身離さず寄り添い続けた彼なのだった。一年周期で新しい彼に乗り換える人もいるのだと思うと、ずいぶん持った方だと思う。
彼のことは忘れないし、彼の記憶はいつまでもメモリに残り続けるだろう。
今までありがとう。おれはこっちに残って、新しい彼となんとかやっていくつもりだ。
だから、
さよなら。
ヤ糖明美のiPhone 8
ここに眠る
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