「子どもが生まれると人間は弱くなるのではないか」について考えるの巻

ブログには書かないだろうことの覚え書き。

今日、社内で流れた「子どもが生まれました」という報告のメール。見たとたん、不意に涙がこみ上げてきた。正確には泣きはしなかったが、ちょっとやばい感じだった。この感情の波は何だろうか。そもそも、子どもができてからというもの、涙もろくなった気がする。

一般的には、「母は強し」というように、子どもができると人間は強くなる、という考えがある。

しかし実感としては、子どもができてから私は弱くなった(それに私は母ではなく父である)。元々、強い人間ではないのだが、「自分は明確に弱点を抱えたのだ」という実感がある。

昔は、私は若いながらに自分の身を棚に上げることができた。何か間違いがあっても、さいあく自分の身が一つ悪くなるくらいなのだから、という楽観的な感覚があった。自分のことは自分で処理できる、ここまでは無茶ができる、という感覚があった(私は不良でもなく冒険家でもないが、慎ましいながらに『無茶』の基準は持ち合わせていた)。

昔は人間関係も、割りと無頓着だった。そもそも私は人見知りで、不特定多数の友人関係を築ける人間ではない。しかし高校、大学と、そのコンプレックスを裏返すように、深い関係を求めずに、多くの人と接してきた。友人たちには今でも感謝している。

結婚したタイミングで、まず私は弱点をひとつ抱えた。家庭を持った人間は、奔放に遊びまわることができない。できないわけではないが、そういうモードではなくなる。家庭を守るためにふさわしくない人間関係は徐々に清算するようになった。

実際、友人と仲違いし、そのままになったこともある。「お前は変わった」となじられたが、「仕方がないではないか」と思った。おそらく私が悪いのだ。

子どもを抱えて、さらに私は弱くなった気がした。守るものがある。言葉のあやでなく、実際問題として。守るものがあると強くなれるというの嘘っぱちだ。守るものができると人間はどこまでも弱くなる。Mr.Childrenの「HERO」の歌詞が言っているとおりだ。

守るもののためには、今までの友を敵と見なすことをもいとわない。時には自分の両親にさえ、敵意を抱く。誰が悪いわけでもないのだが、そうなってしまう。自分が守るべきものを脅かすと思えば、誰彼なく牙をむく。敵を作るなど最悪の選択だが、そうなってしまう。

少なくとも子どもが自分で食えるようになるまで、無責任に放り出すことはできない。

「息子が生まれたとき、『これで自殺はできなくなった』と思った」

と山口瞳は著作で書いている。まさしく実感としてはそういう感じがする。

こんなくだらない人間を頼ってくる子どもがいる、子どもには、こんなくだらない人間しか頼るものがいない、という申し訳なさに戦慄する。せつなすぎる。

もし私が自殺をしたり、何かの手違いで犯罪者になってしまったり、通り魔に殺されてしまったらどうすればいいのだ。私は弱い。この先、どうやって子どもを守っていけばよいのだろう。どうすればいいのかわからない。途方に暮れる。

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