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4月を実感した話

4月1日、ぼくはいつものように子供の朝ごはんを作ろうとしていた。

長男は3月、6歳になったばかり。
少し早起きして、誕生日プレゼントに買ってもらったSwitchのポケモンをやるのが習慣になっている。
いつものように朝が始まっていた。

朝ごはんができたので、「ゲームを終わらせて、手を洗って、食べよう」と長男に声をかけ、ぼくはトースターから食パンを取り出そうとしていた。
ふと視界のすみで彼が立ち止まって動かないのに気づいた。「どうした?」と振り向く。

「うえーん!!!」と、突然泣き出す長男。

「うえーん!! 保育園のみんなに会いたいよ~~!!! うえーん!!」


ぼくは、なんと言葉をかけていいのか迷った。

「小学校に行ったらたくさん友達ができるよ」とか
「もう二度と会えなくなるわけじゃないし」とか
「世の中ってそういう出会いと別れが繰り返されるもんだよ」とか
いくつもの言葉が浮かんで、そのどれもが嘘っぽく感じられて、声にすることができなかった。

ただ、立ったまま泣き続ける彼に寄り添い、頭をなでることしかできなかった。


長男は3月31日まで保育園に通っていた。
卒園式はその1週間前に終わっていたけど、うちの保育園の多くの家庭は両親が働いていたので、子供たちも3月いっぱいは変わらずに登園していた。

最終日の3月31日は父親のぼくのほうが感傷的になったりして、保育園へ歩いて向かう道すがら写真をいっぱい撮ったりした。
長男は大好きなポケモンの話をしながら、いつもと同じように歩いた。
たぶん、「保育園は今日で最後」という実感がなかったんだと思う。

だから、4月1日の朝食前にキッチンで手を洗うとき、「もう友達に会えない」という事実を理解したのだと思う。人生で初めて。

そして、実感したさみしさに耐えられなくなって、泣いた。
感情を止めることができず、堰を切ったように泣き続けた。


大人のぼくたちは、あふれる感情に対してブレーキを踏むことができる。
大声で泣くことを避けることができる。
自分の気持ちが押しつぶされないように、距離を置くことができる。
我慢することができる。

でも、長男が友達に会えないさみしさと直面して、心の底から泣く様子に、その純粋さに、ぼくは少しうらやましさを感じた。
彼のように泣いたのは、最後いつだっただろう?



長男はその後、コロナ禍での入学式と小学校1年目を無事に終え、来週からは2年生になる。
ぼくは1年越しに、書き残しておきたかった2020年4月1日のことをnoteに書いている。
ずっと頭の片隅に「言葉にしておきたい」と残っていた気持ちと向き合うことができた。
文章にできて本当によかった。

ぼくは長男の「人生初」に、あとどれくらい立ち会うことができるだろう。
彼は父親のぼくをいつまで頼りにしてくれるだろう。
わからないけど、そういった気持ちをいつでも受け止められる存在でいたい。

そして、ぼくも彼のように感情を我慢したり、大人ぶって距離を置いたりせずに、ときには向き合っていきたいと思った。

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