鬼滅からみる「生死観」についての考察

今更ですが鬼滅の話題です。

すっごい今更なのは、私が鬼滅読み始めたのが今年に入ってからだからなんですが・・・。もう人気下火になりつつあるのに今更ですみません。

さて、鬼滅読んでみたら意外と面白くてハマったんですが、いくつか気になるポイントがあります。

ジャンプマンガって、最後まで構想作らずに連載スタートするので、最初と最後で設定に矛盾が出やすいんですよね。ネットでもポツポツ見るのは、「最終選別がブラックすぎ」という意見です。いやホント、大事な鬼殺隊候補者を無駄に殺し過ぎ・・・。

あと私が気になるのは、死の先に、転生があるという救いを出してしまっていることです。

伊黒さんという、嫌みったらしい話し方をしたり、嫉妬のあまり主人公の炭治郎を威嚇したりするネクラな感じのキャラクターがいるのですが、最終巻で、この人が実は壮絶な過去を持っていることや、同じ「柱」の甘露寺さんに一途な恋心を寄せていることが明かされます。

(鬼滅を知らない方のために、ちょこっと解説・・・)伊黒さんの過去とは、鬼に自分たちの子どもや他人を生贄に捧げて、生贄の持っていた財産を強奪して裕福な暮らしをしていた一族に生まれ、自身も生贄として育てられていた、というものでした。そんな出自を恨み、「屑の一族に生まれた俺も屑だ」と考え、思いを寄せる甘露寺さんに対しても「傍らにいることすら憚られる」とし「一度死んで腐った血を入れ替えなければ」とまで考えます。

そして、望み通り、宿敵を倒して死に、その死の間際に、甘露寺さんと思いを通じさせ、来世での結婚を誓い合う・・・という・・・。

↑めっちゃ少女漫画じゃないですか!!いや、ほんともう、伊黒さん周りだけすごい少女漫画です。そして最終話+αで、ほんとに来世で再開して結婚して子どもを5人設けるという未来が描かれています。めっちゃ少女漫画です。「ぼくの地球を守って」を思い出しました。

まあジャンプなのに少女漫画展開ってのはいいとして。

伊黒さんのように、家族のした罪であって自分には本来咎がないことを、自らの罪として抱えてしまうというのは、今の世の中の子どもにもいるんじゃないのかな。そこに、「死んで血を入れ替えてきれいになって来世幸せになる」という未来しか示していないのは、どうなのかな。と。

まあエンターテインメントだからね、といえばそれまでなんだけど、少年誌なので、子どもたちの人生に示唆を与えるものであってほしいという気持ちもあります。

物語としては、二人が死の間際に来世での幸せを誓い合うというのは、すごい盛り上がるんだけど、ここは、死んで血を入れ替えなくても、自身の努力で幸せを見つけられるっていう未来を示してもらいたかったです。

なんかね、子どもたちがRPGをやりすぎて、リセットボタンを押したら、死んだ人が生き返るっていうイメージを持っちゃってるんじゃないかとかいう話あったじゃないですか。(←うろ覚え)

今の家族がいやだったら、今の友達がいやだったら、今の自分がいやだったら、死んで生まれ変わろう、来世幸せになろうっていうイメージを持たなきゃいいなって思ったんですよねー。

しょせんエンターテインメントだからね、といっちゃったらそれまでなんだけど・・・。漫画って小説と同じように、文学作品、芸術でもあるわけです。小説だって、娯楽性の高いものと芸術性の高いものと色々あるわけだし、娯楽と芸術の境目とかよくわかんないんですが・・・。社会問題に対するメッセージ性とか、生きることとかの哲学的な提示があったりすると、深いなーって思います。

鬼滅って、死にけっこう真剣に向き合った作品だと思うんですよね。そういう意味で、作者の哲学がしっかり込められている。だからこそ、少年誌掲載作品として、子どもたちに向けた「生と死」のメッセージは、これで良かったのかな、という疑問が残ってしまったのでした。

と、ここまで色々書きましたが・・・結論として、色々考えちゃうほど、鬼滅おもしろい、好きってことです。


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