テネット、「映画についての映画」あるいは、この映画のはじまりについて

TENETのネタバレしてます。でも、ネタバレじゃなくて妄想か

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先日、新幹線の中で、暇を持て余した娘に

名作『四月は君の嘘』

を読ませていました。

で、そのシーン(『四月は君の嘘』をタブレットでよむ娘を後ろからみる私というシーン)に、思ったんです。

この娘が、これから淡い出会いや、強い感情に翻弄させるアオイハルって、やつにこれから突入して、傷付いたり傷つけたりしながら、それでも成長していくのだろうな、

と。

漫画の内容ともあいまって、大きく涙した私なのですが、

その8歳の娘がいうのですよ

「お父さん、私ね。曲がり角があると思うのよ。右にいく私と、左にいく私で、人生が変わるって」

と。

うー。娘よ。成長したな!

お父さんは、いまだに、その世界線にいるので、いまでも、時々スキップをして、運命を変えようとしてるぞ!

と。

さて、そんな娘といつか一緒にみたい映画である、テネットですが、この映画って、いろいろいろいろ考えていくと、とても「映画に関する映画」ってことになると思います。

映画大好きクリストファーノーラン監督が、「コロナで瀕死になってしまった映画館を救うために世界に送った映画だ」って

+++

映画って、フィルム的に・物理的に、結末は決まっていますよね。

それはもちろん、結末の解釈を巡っては、それはハッピーエンドなのかバッドエンドなのかといった解釈はありますが、映画は、終わり、その結末は、100%決定されている。

だから、私たちは、初めてみた映画は、映画というシステムにしたがって、最初から最後までわけがわからないうちにゴールまで運ばれていくのです。(名もなき男がそうであったように)

でも、私たちは、その映画で感じた何かを確かめ、検証し、洗い出し、再度考えなおすために、もう一度映画館にいくことができる。

そこでその再演される映画は、あらかじめゴールがわかった上でも、意味内容が変わった<新しい>映画となって私たちの前に現れる

「ああ。あのシーンはそういう事だったのか」

「あのセリフはそういう意味だったのか」

「だから、彼はそういう行為をしたのか」

といったことが、了解され、映画内の行為に意味が与えられ、初見とは全く違った映画として再現される。

(それはあたかも、この映画の最後の方で、全ての指令をしていた人物の目で見る映画のように)

「あの弾丸がそこにあるのは、そういうことか!」

「カーチェイスはそういうことか!」

「戦ってる男は?なるほど」

ということは、全て再現された2回目の(いわば青のテネットとしての)映画で初めてわかることなのです。

(それにしても、人生に伏線なんてないのに、なぜ人は映画には伏線と伏線回収を求めるのでしょうか?)

+++

さて。別の話題に(関連あるけども)。

友人がいいました。

「このテネットという映画はいつ始まっているのか?」

と。

よくわかります。頭こんがりますよね。

でも、私は、こう思います。

観客が見た時にテネットは始まるのだ。と。まず。

この映画の始まりは、名もなき男を、私たち観客が(名もなき人々でもある)が、観測したタイミングです。

だから、シュレディンガーの猫のように(女性の名前がキャットであるように)、この映画は見なかったら存在せず、観客が見たときに物語が存在し、始まるという構造を持っています(後述します)

そして、

映画の外で、私たちの頭の中で、

このテネットという映画は続き、繰り返し解釈され、改変され、再解釈されるのだと思います。

その上で、私たちは、その謎を確認するために、もう一度、映画館に足を運ぶのです。

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という前提の上で、別のことをいいます。

この映画はいつ始まるのか?

それは、この映画は、ラストシーンから始まります

ただ、重要な点があります。映画としてのループはしません。絶対にしない。ラストシーンが始まりの、もう1つの別のテネットが開始される。最初のシーンに戻ることはない。ラストシーンから始まるテネットがあるだけである。

そこでは、主人公は、ニールを救うために、新しい行動を起こすのだと思います。

この記事を読んでくれた友人は言ってました。


「面白い考察だとは思うし、そうかなーって思うところもあるのだけど、主人公、ニールが死ぬってわかってて、過去にやる?主人公はそんな人じゃないでしょ。だから、なんか違うと思う」と。

その通り!

だから、ラストシーンの主人公は、この過去を(私たちが見てるテネット)を繰り返すためにニールを過去に(ややこしいな、テネット内のの過去ね)戻すことはしないと思います。

そうでなく

この「世界は救ったが、ニールを亡くしてしまった時間軸」

とは別の、新しい、ニールを亡くさないないで澄む工夫を行うのだと思います。

それが、これから始まるテネットなんだと思います。

この前提にたつことで、

「ラストでの主人公は、また未来にいって、ニール(マックス)と出会いって、死ぬのを知った上で、過去に戻すのか?と」

という問いは意味を無さなくなると思います。

あらためていうと、

1)この映画の始まりをしかけた、(過去の)主人公のシナリオによるテネット(これを私たちは見ています。これは過去が改変できないという意味で変える事はできません)

2)(映画のラストシーンにいる、”これからの”)主人公が、新しい物語を始める、再生としてのテネット=観客の頭の中で始まるテネット

と2つのテネットがあり、私たちは1)のテネットを何度も繰り替えしみることで、2)のテネットのあり方を考えていくという映画なのだと思うのです。

そして、私は、こうした

見終わったあとで始まる物語(映画)

って、とても良いよなーって思います。

以上、テネットって、映画に関する映画としてみると、面白いよなーって話でした。


<追伸というか補足>

映画とは神の視点で、世界を見ようとする試みだと私はどこか思っています。<今・ここ>に縛られた<私>という人生以外を生きる術がない私たちが、<今ではないどこか>から見た<私ではない>人生をみたいという欲望。ここではないどこかからの視点と視座と時間軸で、人生をみたいという欲望が映画への欲望だと思います。繰り返しへの欲望もその1つでしょう。そんな意味で、テネットは非常に映画的じゃないかなーって。

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