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楽譜のお勉強【番外編】レオシュ・ヤナーチェク『カプリッチョ』(前編)

本日の「楽譜のお勉強」は番外編です。レオシュ・ヤナーチェクの『カプリッチョ』(«Capriccio» for piano and wind ensemble, 1926)の読んで、いつものように私のシンプルな考察を書いていこうと思い、楽譜をチェックしていました。しかしベーレンライター社のヤナーチェク全集版の前書きが読み物として興味深く、その翻訳をご紹介したいと思い直しました。最後に普及版の楽譜(音源動画に表示されています)と、より原典に忠実な全集版の楽譜の違いなどを少し述べますが、本稿のメインは音楽学者ヤルミラ・プロハシュコーバ(Jarmila Procházková)さんが書いた全集版序文の翻訳となります。長いので、前後半に分けることにしました。次回は来週更新予定です。

レオシュ・ヤナーチェク(1854年7月3日 - 1928年8月12日)による左手のピアノと管楽アンサンブルのための『カプリッチョ』は、1926年の秋にピアニストのオタカー・ホルマンの依頼によって書かれた。ホルマンは作曲家に左手ピアノのための協奏的作品を依頼した。このことは、ヤナーチェクの創作の円熟期における最も現代的で大胆な作品の一つであるこの作品の着想と形式を根本的に決定づけた。

オタカー・ホルマンは、1894年1月29日にウィーンで生まれた。 1913 年に彼は中等学校を卒業した。 彼は6歳の頃から音楽を学び、この時点で彼はすでに作曲し、ピアノとヴァイオリンを演奏していた。 第一次世界大戦勃発後、彼は前線に送られ、1916年11月24日に右手を負傷した。 彼の遺産の中には、砕かれた手のひらのX線写真がある。 彼は右手の感覚がない病人として戦争から戻り、プラハで銀行職員としての職を見つけた。1918年には結婚したが、すぐに妻を亡くした。この困難な時期に彼は再びピアノに戻り、超人的な意志で片手の喪失を克服した。彼は個人的に知っていたハンガリーのゲザ・ジッヒー伯爵から片手でピアノを弾くインスピレーションを受け、1917年にパウル・ヴィトゲンシュタインのコンサートに参加した。 1919年から1924年までプラハ音楽院マスタースクールのピアノ教育者アドルフ・ミケーシュのクラスに通い、1925年から1926年にかけてヴィチェスラフ・ノヴァークのクラスで作曲の知識を培った。ホルマンは作曲の訓練を受けていたため、片手でピアノを弾くのによくある一般的な練習では満足できなかった。彼は元々両手用に書かれた曲や別の楽器用に書かれた曲の機械的な編曲を拒否し、1920年代初頭から現代の作曲家に協力を求めた。最初は理解されなかったものの、新しい作品を手に入れるためにたゆまぬ努力を続け、徐々にヤロスラフ・トマーシェク、ヴァツラフ・カプラール、エルヴィン・シュルホフ、ボフスラフ・マルティヌー、そしてついにはレオシュ・ヤナーチェクをも自分の目的のために協力させた。チェコの作曲家への同様の要求は、当初ホルマンの競争相手であったパウル・ウィトゲンシュタインによっても行われていた。ホルマンはドイツの片手ピアニスト、ジークフリート・ラップの長年の友人であり、1964年に雑誌『音楽とゲ社会』(«Musik und Geselschaft»)にホルマンへのインタビューを掲載した。

ホルマン自身の作曲活動はそれほど重要ではない。戦前、彼は主にサロン音楽を書いていた。後に彼は自分の作品に価値がないことを認め、同時代の優れた作品に注意を向けた。ピアニストとして、彼は 1927年4月にプラハで行われた現代音楽協会のコンサートで初めて大成功を収めた。その後、オーストリア、ユーゴスラビア、ルーマニア、ブルガリア、フランスでコンサート・ツアーをした。彼の最高の成功の一つは、1930年5月12日のパリでのコンサートで、そこで彼は左手ピアノのために書かれた作品を演奏した。彼は指揮者のカレル・アンチェル、ヴァツラフ・ノイマン、オタカー・イェレミアシュ、ヤロスラフ・フォーゲル、ヴァツラフ・スメタチェクなどと共演している。40代になるとチェコ放送で積極的に演奏し、1956年にはヤナーチェクの『カプリッチョ』を録音した。

ホルマンの芸術的努力は、映画制作者にもインスピレーションを与えた。ホルマンによるアレシュ・イェレマールの『左手とオーケストラのための幻想曲』(«Fantasy for Left Hand and Orchestra»)の演奏は、1960年にパヴェル・ホブル監督の短編映画のテーマとなった。映画『左手と人間の良心のファンタジー』(«Fantasy for Left Hand and Human Conscience»)では、片手ピアニストとピアノという2人の主人公の背景として第二次世界大戦のドキュメンタリー・クリップが紹介されている。 この映画は、その深い芸術的価値とは別に、ホルマンの個性を描いたユニークなドキュメンタリーでもあった。

ホルマンの社会的貢献は、彼が書記を務めたチェコスロバキア傷病兵組合での仕事に見ることができる。1959 年に「優秀賞」を受賞した。ホルマンの最後のフル・コンサートは1954年10月に行われた。その後、彼はイタリアとフランスで予定されていたコンサートをキャンセルした。彼は、左手で演奏するという問題は単なる意志の問題ではなく、マックス・ブロートの芸術的正当性に対する疑念が正しいと確信するようになった。ブロートは最初のコンサートの時にホルマンについて次のように書いている。「賞賛を恐れている。彼は拍手に対して明らかに満足感を示そうとしない。それは同時に彼自身の敗北だった」。オタカー・ホルマンは1967年5 月9日にプラハで亡くなった。

ホルマンは、カプリッチョに対する最初の感興を次のように回想している。「[…]私は1925年の秋にヤナーチェクに手紙を書きましたが、返答はありませんでした。この頃、パウル・ヴィトゲンシュタインもまた、コンサート・マネージメント会社を通じて私たちの作曲家たちに左手のためのピアノ曲の依頼をしており、彼らが要求するであろう委嘱料はいくらでも提供してい増田[…]。そこで、私はレオシュ・ヤナーチェクに作品を書いてもらえるよう一層努力し、尋ねました。ヴァツラフ・カプラールが何とか道を通してくれました。すぐにブルノに向けて出発しました。ヤナーチェクは私たちが話し始めたばかりのときに私の話を遮って言いました。「しかし、あなたはなぜ片手で演奏したいのですか。片足しかないものに合わせて踊るのは難しいですよね。最後に彼にマックス・レーガーの『前奏曲とフーガ』を聴いてもらいましたが、帰り際に私は希望は持たないほうがいいのかもしれないという印象を持ちました。[…]」

1926年1月15日の手紙の中で、ホルマンはピアニストで教育学者のルドヴィク・クンデラにヤナーチェクとの仲裁を依頼した。彼は自分の希望を「(左手の)単一楽章の、かなり大規模な室内オーケストラとピアノの曲」と明記し、金銭的な褒賞を申し出た。彼自身、1926年6月に書面でヤナーチェクにもう一度念を押した。ホルマンは自分の要求の結果を報道を通じて知った。1926年11月7日のプラハ日報紙(Prager Tagblatt)は、作曲家のプラハ・ドイツ劇場訪問のニュースを次のような補遺とともに伝えた。マックス・ブロートはその直後、ヤナーチェクがプラハ訪問中に彼のことを訪ねてきたことをホルマンに伝えた。ホルマンはヤナーチェクに手紙を書き、作曲家の返事は1926年11月11日に来た。

「とても光栄です!
カプリッチョを書きました。ご承知のとおり、最初、左手だけに書くというのは、あまりにも子供じみたことのようでした。おそらく他にも理由・原因が物理的にも内面的にもあったのかもしれません。そういった葛藤が全部が集まり、衝突したとき、音楽が訪れました。実際の音の効果はまだ完全には分かりません。この作品はちょうど今浄書されているところです。ステパノーヴァ=クルソーヴァ夫人もこの作品に興味を示しています。注意点があります。ドイツのヴィルトゥオーゾも私との接触を試みています。私は初演の権利を与えることはできません。誰でも初演を行うことができます。作品が完成しましたらお知らせいたします。」

幾日かの内にヤナーチェクとホルマンの間で会談が行われ、1926年11月16日にホルマンはプラハのピアニスト、イローナ・ステパノーヴァ=クルソーヴァを訪問した。彼女はホルマンの初演の権利を認め、ヤナーチェクに2度目以降の公演でも充分だと伝えた。

1927年11月初旬、作曲家は友人でジャーナリストのアドルフ・ヴェズリーの訪問を受けた。ヴェズリーは1924年にヤナーチェクの自伝を出版している。ヴェズリーはヤナーチェクの書斎にカプリッチョのサイン・ページが広げられているのを見つけた。彼はその際の作曲家との会話を、1926年11月18日のチェスケ・スロヴォの新聞記事に「創造の秋のカプリッチョ」というタイトルで掲載した。

[…] 彼の最新作であるカプリッチョはどんな風だろうか?ピアノの上には紙の山が置かれている。 多くのページがソファ、椅子、床で乾かされています。各ページには五線譜が並んでおり、その中に点と記号が描かれている。ヤナーチェクの新作、完成したばかりのカプリッチョだ。
ピアノのための、それも左手用だ。 純粋かつ単純。トロンボーンが3本、トランペットが3本(!)、チューバ、ピッコロ、それにテナー・チューバが (!)。 良いと思う。
私の率直な意見を述べよう:変なアイデアだ!
確かに変だ。どうやってそんなことを考えついたのだろう?右手のないある人が私に尋ねたのだ。マスター、私のために曲を書いてください。ええ。長いこと歩いて考えました。どうすればそれを書くことができるか?そこで思いついたのが、「この方法だ!」ということです。そして仕事に取り掛かりました。これが、『カプリッチョ』です。 […]

1926年末から1927年の初めにかけてコピーと修正の作業が続けられた。ヤナーチェクは1927年5月14日までホルマンには何も言わず、その日彼はとりわけ次のように書いた。「左手のピアノといくつかの管楽器のためのカプリッチョを書きました。これは独奏ピアノ・パートだとは思わないでください。他のパートと同じような声部です。これがあなたに望むものでない場合は、スコアを返送してください。来週には送ります」。ホルマンは、1927年5月17日にセドラチェクのコピー屋で『カプリッチョ』のスコアを受け取った。彼は資料の受け取りを確認し、すぐに作品の研究を始めた。ホルマンは長い間報告を怠ったため、1927年8月11日ヤナーチェクはスコアの返還を求めた。ホルマンの沈黙を興味の欠如と解釈したのだった。しかしその一方で、ホルマンはプラハの現代音楽協会と初演の可能性について交渉しており、ピアノ・パートを練習していた。ヤナーチェクは、1927年8月16日のルハコヴィチからの手紙の中でこの誤解について次のように説明している。

親愛なる友人よ!
価値がないと判断したか、すでに書き写し終えているのではないかと思いました。 必要に応じてピアノ・パートを修正してください。 […]

本日の記事ではここまでになります。委嘱ピアニストのホルマンに関するエピソード中心でした。知らない話がほとんどだったので、面白く読みました。次回更新時、後半の翻訳を載せます。


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