永富康孝とは何者?
こんにちは。
西宮 鳴尾 甲子園中心に活動する
ファイナンシャルアドバイザーの永富です。
『永富康孝』とは何者か?
説明させていただきますww
およそ45年ほど前
西宮鳴尾町の元日の朝、日の出の時間とともに
定食屋『そしゅうえん』の次男として
この世に生を受けました。
鳴尾小卒
小学校時代、運動神経抜群で足が速く、勉強はそこそこできましたw
ただし、3年生迄は感情むき出しで、手打ち野球やサッカーなど友達の
ミスを怒りまくる「嫌なやつ」でした。
しかし、そんな私の姿を見た3年、4年担任のU前先生が
「ながとみ~ 短気は損気やぞ~」と一言。
これが「あっ」思い切り胸に刺さりました。
そして、この一言をきっかけに自分の性格を変えなければと子供ながらに感じ、理性を働かす事を覚えました。
U前先生の一言がなければ、どんな『わがまま野郎』に育っていたのかw
先生や指導者の放つ言葉の威力と影響力は、すごいと実感しました。
この経験が、のちの幼児教室やサッカーの指導の際に活きていると思います
習い事
サッカー 4年
スイミング 1年
剣道 3年
書道 7年
鳴尾中卒
鳴尾中学ではサッカー部に所属 3年生の時には目立ちたかったのか背番号「0(ゼロ)」をつけていました。(公式戦はダメw)
塾はリバティ学習院に小学5年生から中学3年の最後までお世話になっていました。
今はありえないかもですが21時スタート23時終わりでかなり遅めの時間帯のCクラスです。
算数、英語どちらも塾長が受け持つクラスで、授業が脱線しての塾長とのナイトスクープの話しが大好きでした。
中学の時は結構頑張って勉強してました。
だいたい定期テストは5教科で450点ギリギリ届かないくらいでした。
おそらく、高校の入試の際の社会のテストは自己採点100点だと、いまでも妻や子供に過去の栄光をプチ自慢してます。
西宮東高校卒 31回生
高校入学後、当然の様にサッカー部に籍を置くもシゴキといわれる先輩によるお説教タイムがある事と、それなのに先輩が夏の最後の大会で1回戦負けを喫した事にがっかりしてしまい、サッカーへの愛が著しく無くなってしまいました。
そこで、競技は変わってもいいから一度『強いチーム、良い指導者の下でスポーツをやってみたい』と当時公立高校なのに全国大会にも出場していたハンドボール部に移籍を決意しました。
ハンドボール部を率いるK藤先生の指導力を目のあたりにし、スポーツは良い指導者に恵まれる事が大事だと痛感しました。
但し、ハンドボール部では身長も低く、シュートが入らず(笑)
高校3年の最後はベンチウォーマーでした。
(木暮君の位置です)
でもベンチから声はかけ続けてましたよw
進路については、大学受験にチャレンジするという選択肢がなぜか欠落しており、高校に入った瞬間に勉強をしなくなってしまってました。
社会人になる、そして家庭を持つ
高校卒業後はアルバイトなどを経て、金融業に勤める事に
22歳には最愛の妻と結婚、翌年には長男が誕生しました。周囲と比べて、結婚はかなり早い方でした。
その後、ご縁があり
かねてより興味のあった子供の教育産業に転職することになりました。
前期 幼児教室時代
大阪の老舗小学校受験専門の幼児教室に勤務、半年で教室長となりました。
ミッションは毎年数百万の赤字だった幼児教室の立て直しです。
教育分野は初めてでなので色々と学びつつも、運営においては様々なチャレンジを行い、良い面を残しつつ新しい風を送りこみ、あの手、この手で立て直しに成功、売上は7年で8倍になり。
利益もしっかりと確保する事ができました。
また大阪教育大学附属小など合格者多数出せる様になりました。
いや~教育産業は初めてだったですけど、朝、早くから夜遅くまで、時には泊まりこんでめっちゃ頑張りましたw
サッカーコーチにハマる
長男がサッカー少年団に所属、当時の監督から「ちょっと手伝ってくれへんか」と言われ、仕事と別にボランティアでサッカーコーチをスタートしました。
サッカーコーチをスタートして2年ほど、サッカーコーチが面白すぎましたww。
幼児教室は土曜日の授業が多く、日曜日も仕事になる事もあり、練習、試合になかなかいけません。当然、大人なので仕事と家族は優先です。
そんな折、実家『そしゅうえん』のピンチを聞きました。
父と母も年齢をかさね、新しいお客様を掴みにいくパワーも少なくなってます
『よし、そしゅうえんの立て直しと、サッカーコーチを思い切りやろう』
そして実家、そしゅうえんに勤務することにしました。
実家 そしゅうえんの次男時代
あまたある飲食店が開いては閉まっていく、厳しい世の中にあり、この時点で実家、そしゅうえんは創業40周年を迎える直前です。
町中華から始まり、定食屋へ変遷。
全然、順風満帆ではなく、山あり谷ありでしたが、それでも結果としては末っ子の私を含めた3人兄弟が無事大人になりました。
立て直しの作業は、そしゅうえんの強みを全面に押し出しだして、PRする事が中心です。
チラシ、ブログ、ポイントカードなど、今まで全く宣伝して来なかった(笑)ので
味やコストパフォーマンスは抜群なので、効果はすぐに表れました。
私自身も広告塔となり、胸に『そしゅうえん』のチーム名、背中の背番号は『次男』と書かれた、サッカーユニフォームで配達先の兵庫医大や三輪バイクであちこち出没しておりました。
サッカーでは一つの学年の主任コーチとなり、色々な試行錯誤をしながらも、自主自立というテーマの下、子供達と喜んだり、悲しんだりと充実の日々を送る事ができました。
サッカーチームのコーチという、いわゆるヌマにはまりましたw
後期 幼児教室時代
そしゅうえんの立て直しが終わると、ご縁があり、神戸の新設の幼児教室のマネージャーになりました。
こちらでは、いままでの経験をベースにさまざまなもの(レッスン内容、教材など全て)を日々作りあげながら、会員数を増やしていくミッションでした。
ここでは特にエビデンスのある教育情報を会員様にお伝えしておりました。
小学校受験指導ではなく、幼児の能力開発です
そしてフィナンシャルプランナーーへ
新設の幼児教室もある程度軌道に乗ってきた頃、幼稚園から高校までの同級生、橋本氏が私の前に現れました(笑)
そして…
『ながちゃん、俺と一緒に仕事せえへんか』
◯自分の事を評価してくれ、ドラフト1位で指名してくれた事
◯橋本氏の知識が金融のプロとなる過程を友達として見ていた事
◯お客様とすごく深いキズナで結ばれている事
など、新しい事にチャレンジする事が好きな私にはとても魅力的なオファーでした。
いい意味でのおせっかい
今まで培った幼児教育やサッカーコーチとしての経験や知識。
そこに金融知識や防犯知識など。
私とご縁のある方に、少しでも有益な情報をお届けし、良い人生を送って頂く
『良い意味でのおせっかい』をする
これは永富康孝の人生の集大成になる。