見出し画像

スペイン風邪から人々を救ったマジシャンの話

 1918年の秋、彼はピュイドドーム山頂の軍用施設で暮らしていた。彼がそうなったのは運命のいたずらと言うしかない。第一次世界大戦のさなか食料科学者として志願したのにもかかわらず、いったいどうしたことかケリーフィールド部隊の誰かの手で気球科学者として登録され、医学者として気球会社へ派遣されてしまったのだ。
 彼は、たびたび山から降りて近くの村々で手品を見せて歩いた。そんな不思議な経緯と行動を持つ彼こそ、後の世にマジシャン全ての指導者と言われる偉大なるマジシャン、ハーラン・ターベルであった。

 ある日のこと。彼は村人に部屋へ招かれてマジックを見せていた。
 まずは、硬いはずの2フラン硬貨をちぎって、そしてまた元通りに復元してみせる。観客たちはみな驚いた顔を見せ、遅れて盛大な拍手を彼に送った。次に彼はグラスに入っている透明の水を一瞬で赤いワインに変えてみせる。部屋は村人の大きな感嘆の声で満ちていた。

「それでは、次のマジックに移りましょう」
 そうして場が再び静寂した時、ターベルは酷く苦しそうなうめき声に気付いた。彼はそれを無視してショウを続けるような人間では無かった。
「・・・皆さん、どこからかうめき声が聞こえませんか」
「それなら、隣にいるうちのおばあちゃんの声だよ。具合が悪いからショウが見れないんだ」
 彼は村人たちにショウを中断することを詫び、その部屋のドアをノックした。村人たちと共に中に入ると、そこには濡れたタオルを頭に巻いたおばあさんが呻いていた。
「どうしました、マダム」
 彼が紳士的にそう尋ねると、おばあさんは苦しそうに返す。
「マル・ド・テテ―――――――」
 それはフランス語で酷い頭痛を示す言葉。死ぬほど痛いと訴えるおばあさんに対して、彼は首筋にマッサージを施す。その優しいマッサージは、おばあさんの緊張をほぐし痛みを和らげた。実は彼には整体医学の心得もあったのだ。
「あら、マル・ド・テテが消えた!」
 おばあさんはどんなマジックよりも驚いた顔で、その丸く見開いた目をターベルの方へ向ける。
「そう、これはマジックなんです」
 周りで見ていた村人から、惜しみない大きな大きな拍手が巻き起こった。それだけに留まらず、その噂は村から村へ伝わり、ターベルは近隣中の村人たちにマジックドクターと呼ばれるようになるのだった。

 それからしばらく後のこと。唐突に、玄関のドアを叩く音をターベルは聞く。彼がドアを開けるとそこにロバの馬車に乗った一人の婦人を見つけた。山頂の軍用施設にまで、たった一人で訪れたのだ。
「あなたのマジックで私たちを助けてください」
 彼女はそう嘆願する。村では凶悪なインフルエンザが流行しており、人々が次々と白い十字架の下に埋葬されて行った。疫病への恐怖が村中を支配していて、誰もが助けを求めていた。
 スペイン風邪と呼ばれたこのインフルエンザは、第一次世界大戦中3波にわたり全世界を襲った。当時はウィルスが原因とは知られておらず、ウィルスそのものすら二十年前にようやく見つけたばかりだった。世界人口の50%が感染、25%が発症し、累計死亡数は二千万人を越える疫病史上有数の凄惨な歴史として残ることになる。
「うちの人たちが死にかけています。すぐに村に来てください。お願いします!」
 婦人の願いに、すぐさまターベルは医療品を手にとった。それと、レモンを。素早く馬車に飛び乗り、秋の枯れた茶肌の山を下り、3キロ離れた村まで駆け付けた。

 村人たちは外に出てマジックドクターの到着を待っていた。彼は馬車の中で立ち、祈りをささげた。そしてそのまま村人たちに語りかけた。
「恐れてはならない。これ以降、疫病で死ぬ者はいない」
 さすがに村人たちも、にわかには信じられなかった。ターベルは続けた。
「ただし、救うのに遅すぎた者以外は。さあ、最悪の状態の人のもとへ私を連れて行きなさい」

 彼が到着した家は、この五日間で夫と兄弟と子供を失った婦人の家だった。さらには婦人も婦人の母親も死にかけており、まさに最悪と言うのに何のためらいもない状態だった。
 「マジックドクター、お願いします」
 ターベルは十字架を手にした女性たちに迎えられて部屋に入る。しかし丁度その時、老婦人は天に召されてしまった。
 部屋は悲しみと嘆きで溢れた。恐怖で泣き叫ぶ女性すらいる。
 ターベルは祈りをささげた後、彼女らに言葉をかけた。
「恐れてはいけません。この疫病では死人がこれ以上でない、そう人々に伝えなさい。さあ私が魔法の十字を切りますから、もう誰も死ぬことはありません」
 この家で死にかけている若い婦人に、彼は液状の薬と湿布をあてがった。
「これらは魔法の薬です。きっと良くなります」
 さらにターベルはベッドに白いチョークで不思議な印を書き、笑顔で婦人に説明をする。
「これは魔法の印です。私を信じてください」

 彼は村中に同じ魔法の薬、同じ魔法の印、同じ魔法の笑顔を施して行った。薬の正体はレモンジュースだったが、魔法は本当にかかっていた。それは『信じる』という魔法だったのだ。
 疫病で五千人、疫病への恐怖で四万五千人、合わせて五万人が亡くなったイタリアの事件をターベルは知っていた。そこで彼はマジシャンとして出来ることを勇気を持って行動したのだ。

 彼の著書で、あなたは信じられないかもしれませんが、と彼自身が結末について語っている。そう、それはとても信じられないような奇跡が起きたのだ。
 それ以降、その村ではただの一人の死者も出なかった。彼のマジックにより恐ろしい疫病は跡形も無く消え去っていたのだった。


 この物語はハーラン・ターベル博士自らの著書で語ったものが基になっています。マジックの書物と言う特性上、一般の人々にこの話が伝わるにはこの形しかないと判断しました。2002年に本作の掲載を快諾して戴いたテンヨー様に、感謝致します。

資料:ターベル・コース・イン・マジック八巻。
写真:https://www.facebook.com/pg/tarbellmagic/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?