イースター(復活節)に考えたこと

洗礼を受けたころ、
ミシェル・クオスト『神に聴くすべを知っているなら』
という本をいただきました。
詩集というべきか、祈りの本というべきか。
著者の祈りや、切実な訴えがつづられ、その中には
著者の言葉にイエズスが応える、という型式のものがありました。
今回、思うところあって、この一文を記すに際し、
自分もその型式に倣います。


私は以下のように祈った。


イエズス、
自分が働いているのは介護老人保健施設です。
心身に不具合のある老人が、病院からは退院したものの、
まだ家庭には帰れないという場合、療養のために過ごす施設です。
本来は三か月で帰宅するのが建前ですが、
心身の回復が足りないと判定されれば、その期間は伸びていきます。
自分の勤める施設でも、三か月で帰宅する方は非常にまれで、
もう何年も入居を続けている方ばかりです。

夜勤をしていると、
入居している方のうめく声、悲痛な訴えが聞こえてきます。
「痛いよ、痛いよ」「何とかして、なんともならないの」
毎日、とぎれとぎれではあるけれど、
朝までその絞り出すような声は続きます。

声を出せる方ばかりではありません。
起き上がることもできない方は、パット内に排泄しますし、
自分で寝返りができない方は、定期的に体の向きを変えます。
そうやって、体を動かしたとき、ある方は悲鳴を上げ、
ある方は力なく、すすり泣くような声を出します。
体中が痛い、動かすのもつらい、そう訴えます。

病院に手伝いに行ったとき、一晩中、
「もう殺してください」と、
うなされるようにつぶやいていたおばあさんもいました。

それほどまででなくたって、車椅子の方々が半分以上いて、
お手洗いに座るのも私や他のスタッフの手が必要です。
その時にも、痛みや不自由を訴えない方はおられません。
痛み、不自由以外にも、排泄を他人に頼るというのは、
恥ずかしさや申し訳なさを伴うからと、食事や飲み物を拒んだり、
トイレに行くことを拒否して、かえってひどい汚染につながったり、
そんなこともしょっちゅうです。

一方では、既に自分で食事をすることができない方々もいて、
その方々は寝たきりで、胃に直接つながれた管から、
液体の食物を流し込まれて生きています。

教会のミサでは、信仰告白を唱えます。
「聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、
聖徒の交わり、罪のゆるし、
からだの復活、永遠のいのちを信じます。」

だけど、自分の体が原因で、
ベッドに縛り付けられたり、移動も排泄もままならず、
絶え間ない苦しみや痛みにさいなまれている、
そんな方々を毎日、目にしていると、
からだの復活というのは、なんと恐ろしいことかと思うのです。
これほどまでに、人を苦しめたり、辱めたり、
痛めつけるわたしたち人間の体、
それが、永遠の命とともに、よみがえるのでしょうか。
永遠の命とともに、からだが復活するのであれば、
このからだの苦しみ、痛みも、また、永遠になるのでしょうか。

他の宗教や、教えによっては、復活の際には、
体が若返るとか、傷や病はすべて消え去るという者もいます。
イエズス、あなたの教えではどうなるのでしょうか。
からだが復活しても、苦しみはよみがえらないのですか。
だとしたら、それはどのようなものでしょうか。


そして、イエズスは、応えられる。


子よ、何度でも言う。
「みな、私のようによみがえる」と。

私がよみがえったとき、私のからだは、
傷一つ、しみ一つないものであったか。

釘打たれた手足の穴、槍でえぐられた脇腹、そのままによみがえった。

それはただ、トマスのためだけではない。
すべて、痛み、苦しみ、傷を負って生きて死ぬあなたたちのためだ。

十字架にかけられる前の私と、よみがえった私の違いは何だったか。
十字架にかけられる前、私はなぜ苦しみを受けるのか、わからなかった。
だから、あれほどまでに死を恐れ、父に願った。
弟子たちに捨てられることを知っていたが、なぜだかわからなかった。
だから、眠りこんだ彼らをしかりつけ、失望した。

しかし、よみがえった私は、そのすべての意味を知っていた。
なぜそれらが必要なことだったのか、
それらがどれほどの実を結ぶか、すべて理解して、よみがえった。

だから、何度でも言う。
「みな、私のようによみがえる」

あなたがよみがえるとき、
あなたが他人にされたことのすべての理由、
あなたがしたことが、むすんだ実のすべて、
あなたの身に起こったすべての出来事の意味、
それがわかる。

あなたや、ほかのすべての人、みな、よみがえるときには、
自分の生きている間に起きたこと、したこと、されたこと、
すべてに、かけがえのない価値があり、
他にはかえられない、意味があったことが、はっきりとわかる。

あなたが、そして他のすべての人が、
生きているあいだに起きたことは、
それがどれほど苦しく、痛みを伴うものであったとしても、
そのすべてに価値があり、意味があることだから、
絶対に、無に帰されることはない。なかったことにはされない。
あなたが、そのからだで生きた、そのすべての時間、
あなたのからだに刻まれたすべての出来事が、
天の国に受け入れられ、神に清められ、聖なるものとされる。

何度でも、何度でも言う。
「みな、私のようによみがえる」

よみがえる前には、私の傷は、恐ろしい暴力と死と迫害の印だった。
しかし、よみがえった後、
私の傷は、愛と、救いと、永遠の命の証になった。

だからあなたの体は、今は、苦しみや痛みを与えていたとしても、
それは全く変わらないまま、喜びと愛をあなたに与えるようになる。

あなたが、他人の手を借りなければなにもできない、
不自由な体を持っていたのであれば、
神の前に出たときに、
多くの人から助けられた、愛されるに値する者であったと、
あなたのことを証しするだろう。
あなたが、絶え間ない痛みや苦しみを与える、
傷ついた体をもっていたのであれば、
それは神に、あなたがいかに耐え忍び、戦い抜いたかを語る。

永遠の命は、今のはかない生を、否定するものではない。
むしろ、今まさに生きているその瞬間を、永遠のものにする。

ああ、何度でも言おう。
「みな、私のようによみがえる」

私が、父なる神の国に入り、右の座につき、
ふたたびあなた方の前に訪れるのは、
あなたがたと同じように生きた、
あの短い人生があったからこそではないか。

だから、あなたも、今の人生こそが、永遠のものとされる。
いかに苦しいことも、痛みを伴ったことも、
何一つ捨てられることも、抹消されることもなく、
清められ、祝福され、聖なるものとされる。


私は祈る。


主よ、お言葉のとおりになりますように。

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