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竹松早智子評 ルーシー・ウッド『潜水鐘に乗って』(木下淳子訳、東京創元社)

現実と空想の狭間で出会う物語――英国コーンウォール地方の伝承が新たな短篇集に

竹松早智子
書籍名・作品名:潜水鐘に乗って
著者名・制作者名:ルーシー・ウッド 著、木下淳子 訳
出版社名・制作者名:東京創元社

■『潜水鐘に乗って』には十二の短篇が収められている。いずれもイギリス南西部のコーンウォール地方に語り継がれてきた伝承や伝説をもとに生み出されたものだ。
 コーンウォールは神秘的な土地である。荒れ野(ムーア)が一帯に広がり、岩や巨石、森や泉が点在する。切り立った崖には白波が打ち寄せ、浜辺にはカモメが群がる。そんな素朴だがどこか異界の雰囲気が漂う景観に加え、この地に色濃く残る物語の数々がその魅力を一層際立たせる。
 伝承に登場するのは妖精や精霊、魔犬、巨人、人魚といった伝説の生き物が大半だが、亡霊や魔女の話も多く、巨石群にも様々な言い伝えがある。アーサー王にまつわる伝説も豊富だ。
 こうした伝承のエッセンスを取り入れ、新たな物語として作られたのが本短篇集である。描かれているのはありふれた現代の日常だ。穏やかに日々が流れる一方で、誰もが孤独や不安から逃れることができない。すると、ふとした瞬間に、人々は現実と空想の狭間にたどり着く。そして伝承に生きる者たちが、そっとそばに寄りそってくる。
 表題作「潜水鐘に乗って」では、人魚の伝説、「緑のこびと」では、妖精の塗り薬の話が下地となっている。どちらもコーンウォールだけでなく、多くの地域で語られる代表的な伝承だ。人魚や妖精は人の心を惑わして悪さをする恐ろしい存在とされることも多い。たしかにそういった一面は示唆されるが、孤独を抱える人々にとって、彼らは一種の救いとなり得る。
 「浜辺にて」では、漁師だった祖母とその孫が浜に流れ着く漂流物を通して心をかよわす。そこに登場する姿の見えない海の妖精ブッカは、悪事を働くわけではないが、自然と同様、時に人間に牙をむく。ブッカに大切なものを奪われて深い悲しみの内にいる祖母は、それでもこの妖精を恨むことはない。物語の終わりに二人のもとへ漂着したかすかな光を放つ「月の欠片」は、悲しみとともに生きる人々がほんの少しでも前を向けるようにとブッカが残した痕跡のようで、切なくも温かい。
 また、死への恐怖は万人に共通するものだ。伝承の題材とされることが多いのもそのためだろう。「願いがかなう木」で、主人公のテッサと母親のジューンがヘアゴムやブレスレットを結びつけている木はウィッシング・ツリーなどと呼ばれ、多くは泉のほとりにあり、中には病からの回復を願うものもあるという。「魔犬」では、死の前兆を示す伝説の生き物についての話が出てくる。どちらの短篇も大切な人がこの世からいなくなってしまうのではないかという不安や後悔から、物語全体にどこか不穏さが感じられる。しかし、その不吉な予感を振り払おうと、心から祈りを捧げる人々の姿は印象的だ。言い伝えをくつがえそうとしながらも、その文化を大切に思う人たちを信じたくなる。
 伝説の生き物が抱く感情から人間に思いを馳せることもある。たとえば「巨人の墓場」では、巨人の子であるゴグと友人のサンシャインが過ごす、ある夏の一日が語られている。ゴグにはやがて巨人の体となる「幻の体」と、実際に触れたり動かしたりできる「現実の体」がある。体が巨人へと近づくたび、二つの体の感覚のずれは大きくなって思うように扱えない。そのもどかしさは、上手くコミュニケーションが取れないいら立ちや、友人と離れ離れになる将来への不安、体の違いへの戸惑いへと発展し、大人になっていく思春期の子供の心境と重なっていく。夏の終わりを惜しむ二人に子供でいられる時間が残り少ないことを感じ、思わず胸が熱くなる。
 本短篇集の最後の作品「語り部の物語」に登場するのは、何百年も生きてきた語り部の男だ。物語が必要とされていた時代、その地域の中心には彼がいた。当時呼ばれていた名前は、もはや自分でも思い出すことができない。今はただ「ドロール・テラー(語り部)」と呼ばれている。以前と比べてすっかり変わってしまった地域の様子から、ドロール・テラーは自身の存在意義とも呼べる物語を生み出すことができないでいる。だが、心の奥底にはかつての記憶の一部が失われずにたしかに存在している。息をひそめていた鉱山に棲みつく精霊の気配を感じ取り、ドロール・テラーの物語も再び動き出そうとする。やがて新たな名前を与えられ、自分自身も取り戻していくと思われる。
 おとぎ話は必ずしも「めでたし、めでたし」で終わるとは限らない。それは現実とあまり変わらないのかもしれない。それでもコーンウォールの伝承は著者のルーシー・ウッドの手で新たな短篇集に生まれ変わり、物語を待つ人々へ届けられ、寂しさや孤独の中にいる人の背中を優しくなでる。そして時に形を変えながら、語り部たちはこれからも新しい物語を紡ぎ出していくのだろう。
(翻訳者/ライター)

「図書新聞」No.3629・ 2024年3月2日に掲載。https://toshoshimbun.com/
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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