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三角明子評 ジョン・バカン著、エドワード・ゴーリー画『三十九階段』(小西宏訳、東京創元社)

逃亡劇の成否は協力者の見極め次第――退屈な日々から一転して命がけの冒険に乗りだした主人公の心は多いに揺れ動く

三角明子
三十九階段
ジョン・バカン 著、エドワード・ゴーリー 画、小西宏 訳
東京創元社

■第一次世界大戦前夜のロンドン。約三十年ぶりにアフリカから帰国したリチャード・ハネーは、退屈のあまり、余生を英国で過ごす計画を反故にして、アフリカへ戻ろうと思いはじめていた。ある日、外出から戻り自室の鍵を開けようとしていたハネーに、同じ建物に住むという男が話しかけてくる。その日まで一週間ハネーを観察していたという男は、スカッダーと名乗り、使命を果たすため助力してほしいという。
 ハネーはスカッダーをアパートに匿うことにしたが、数日後、ハネーの外出中にスカッダーは殺されてしまう。ハネーは殺人の容疑者として警察に追われる身となった。さらに、スカッダーを殺害した組織も手を伸ばしてくる。ここからハネーの逃亡劇が始まる。
 『三十九階段』は、スコットランドの小説家・歴史家・政治家ジョン・バカン(一八七五‐一九四〇)が一九一五年に出版した小説で、〈英国冒険小説の古典〉(戸川安宣による解題参照)とも評される快作である。出版後はたちまち版を重ね、大きな成功をおさめた。一九三九年のヒッチコック監督作品(公開時の邦題は『三十九夜』)をはじめ、映画化も三度されている。日本では、ハネーを主人公とするシリーズ長篇五作のうち、本作と『緑のマント』『三人の人質』が翻訳出版(創元推理文庫)されたが、長く入手が困難だった。
 本作の主人公リチャード・ハネーは、国際紛争に起因する陰謀に巻きこまれ、命までも狙われて逃亡を余儀なくされる。だが〈大英帝国で最も退屈している男〉を自認していたハネーの心は、むしろ奮いたつ。〈めまぐるしい捕物帳になることだろうが、そういう先行きのことを考えると、奇妙なことだが気が楽になってきた。あまりにも長い間、髀肉の嘆をかこってきたせいか、冒険となれば、いかなるものであろうとも望むところだった〉と語り、スカッダーの計画を引きついで、託された情報をしかるべき人物に届けることを決意する。退屈な日々から一転して命がけの冒険に乗りだしたハネーの心は、この先も多いに揺れ動く。
 ハネーは潜伏先として、荒れ地の広がる地方を選ぶ。アフリカの草原で見につけた知識や経験を活かせるだろうと考えてのことだ。追手をかわしながら移動していくハネーは、意外に多くの人と言葉を交わし、時には包み隠さずに事情を打ち明けて助けを求める。そうして活路を見出していくハネーの姿を念頭に置いて、〈どのように頼るべき人間を見極めるのか、そこに物語のポイントが集約されている〉という、前出の戸川の指摘には大いにうなずける。思えばハネー自身、凄腕のスパイだったスカッダーに見極められ、助力を乞われた人物だったのだ。
 スパイを本業とするわけではないハネーは、〈ごく平凡な人間で、衆にひいでて勇気があるわけではない〉と自認する。しかし、逃亡生活が進むにつれ、変装、暗号解読、情報攪乱など、帰国以前に身につけた多様な技能が明らかになっていく。その技能を活かしてさまざまな苦境をどう切りぬけていくかも、本書の妙味といえよう。
 最後に、ジョン・バカンの作品そのものに加え、エドワード・ゴーリー(一九二五‐二〇〇〇)による表紙および本文挿絵に注目してみよう。ゴーリーは〈カルト的〉とも評される人気を誇る絵本作家・イラストレーターで、ミステリー小説の表紙や挿絵も数多く残した。本書の表紙を飾るイラストでは、白と黒で構成された陰影に富む海辺の断崖、そして地表近くにぽっかりと浮かぶ巨大な黒い岩が、不気味な存在感を放っている。その岩を目指すように海から崖の上へと伸びる階段が、本書の題名である「三十九階段」だろうかと思いながら眺めていると、数字に託された意味にまで思いが及び、暗黒の岩に吸いこまれていくような心地がしてくる。本書の復活に際して選んだパートナーとして、これ以上のものはないだろう。
(大学教員・翻訳者)

「図書新聞」No.3636・ 2024年4月20日に掲載。https://toshoshimbun.com/
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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