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岡嵜郁奈評 マリア・ノリエガ・ラクウォル『キッチンからカーネギー・ホールへ――エセル・スタークとモントリオール女性交響楽団』(藤村奈緒美訳、ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス)

評者◆岡嵜郁奈
音楽の力によって女性たちが成し遂げた革命の物語――モントリオール女性交響楽団はゼロから始まっ
キッチンからカーネギー・ホールへ――エセル・スタークとモントリオール女性交響楽団
マリア・ノリエガ・ラクウォル 著、藤村奈緒美 訳
ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス
No.3588 ・ 2023年04月22日

■女性だけのオーケストラ発足 「男社会の業界に一石」
 昨年十二月九日、東京女子管弦楽団設立を報じる日本経済新聞オンラインニュースの見出しである。本書『キッチンからカーネギー・ホールへ』は、奇しくもその翌日、十二月十日に刊行された。一九四〇年に女性のみで構成されたオーケストラ、モントリオール女性交響楽団と、その創設に関わった女性たちのノンフィクションである。
 「女性だけ、女性のみ」という文言に反発する者もいるかもしれない。なぜ女性に限定するのか、既存のオーケストラがあるではないか、と。なぜ女性のみのオーケストラが生まれたのか。その疑問をもつ者は、かつてカナダに存在した女性交響楽団の記録以上のものを、本書に読み取るだろう。西洋でオーケストラが「男性限定クラブ」だった当時、指揮、演奏、運営すべてを自らの手で行うことで、その扉を開いた女性たちがいた。信念を貫き、他者と力を合わせ、社会を変革していくその姿は、二十一世紀に生きる私たちにも、多くの示唆とインスピレーションを与えてくれる。
 モントリオール女性交響楽団はゼロから始まった。活動資金は乏しく、大きな組織運営の経験者はおらず、団員の多くは舞台での演奏経験がなかった。楽器の演奏経験のない者すらいた。だが結成七カ月で初コンサートを開き大成功を収め、七年後にはカーネギー・ホールでアメリカ・デビューを果たす。結成当初は団員の自宅の台所や居間で練習を行っていた女性楽団が、音楽家にとって成功の頂点ともいえる世界最高峰のコンサートホールを満員にし、大喝采を浴びる。前代未聞の快挙だった。
 先頭に立ってオーケストラを導いたのは、指揮者のエセル・スタークである。一九一〇年、ケベック州モントリオール生まれ。ユダヤ系移民の権利のため闘う両親の下で育った。ヴァイオリニストとして頭角を現し、十七歳で奨学金を得てアメリカに留学、高い評価を受ける。その留学先で指揮法を学んだことが、後の女性オーケストラ誕生へとつながった。
 エセルの人となりを語るエピソードがある。当時、指揮法の受講生は男性のみに限られていた。だがそれを不服とした彼女は最初の授業に許可なく出席し、退席をうながされても頑として譲らず、教授に受講を認めさせてしまう。音楽に対する激しい情熱と、鉄のような意志。この二つを併せ持つエセルは、女性音楽家として新しい道を切り拓き、世界を変えていく。
 楽団の運営を担ったマッジ・ボウエンが、後方でオーケストラを支えた。敬虔なキリスト教徒であったこの女性と、才能溢れる若きユダヤ人、エセル・スタークを結びつけたのは、音楽を通して女性の社会的地位を向上させたいという強い願いだった。「私たちの使命は、このオーケストラをあらゆる女性が参加できるものにすること」。
 二人のもとには多種多様な女性が集まった。十六歳から六十歳まで。様々な職業を持ち、大半が既婚者で子供がいた。モントリオールの社会を反映し、英語話者のプロテスタント、フランス語話者のカトリック教徒、ユダヤ教徒など、団員の文化的背景は多岐にわたった。労働者階級もいれば、上流階級の団員もいた。集まった女性たちの目的は、共に「音楽を奏でること」、女性にも一流の演奏ができると証明すること。
 一九四〇年七月、最初のコンサートでの彼女たちの様子が、本書の中盤に生き生きと描かれている。会場はモントリオールの街を見下ろす小高い丘の上。著者は数名の団員の当日の行動と感情を細やかに追うことで、読み手の心をこの大きなイベントへと引き込んでいく。それぞれの楽器を手にし、揃いのコンサートの衣装を身につけ、五千人もの聴衆を前にした団員たち。日々の猛練習、仕事、家庭との両立の難しさ、女性オーケストラへの偏見と批判、数々の逆境を乗り越え舞台に立つ彼女たちの緊張、喜びと興奮が鮮やかに伝わってくる。
 エセルと団員たちは信条、階級の差を超えて団結し、精力的な活動で音楽界を変え、後進の女性音楽家たちへ新たな門戸を開いた。このノンフィクションは、音楽の力によって女性たちが成し遂げた”革命”についての物語である。だが、それだけではない。最後の数章では、楽団が活動に終止符を打つまでの過程が描かれ、そこには私たちにとってこれから考えるべき課題が含まれている。
 「女性だけ、女性のみ」の制限は、果たして必要、あるいは有効なのか。
 エセルたちが目指したのは、男女問わず、誰もが自分の選んだ楽器で、自由に音楽を奏でることのできる世界だった。それはつまり誰もが自らの選んだ生き方で、自由に人生を謳歌できる世界に他ならない。エセルとモントリオール女性交響楽団の物語は続く。これからも、新しく女性オーケストラが生まれたここ日本で。
(翻訳者/語学講師)

「図書新聞」No.3588 ・ 2023年04月22日(日)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。


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