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大工原彩評 アミタヴ・ゴーシュ『飢えた潮』(岩堀兼一郎訳、未知谷)

評者◆大工原彩
彼らが生きた軌跡とわたしたちが生きる奇跡が交差する――これまでとこれからの出会いを愛おしく思わせてくれる一冊
飢えた潮
アミタヴ・ゴーシュ 著、岩堀兼一郎 訳
未知谷
No.3597 ・ 2023年07月01日

■インドの東側に位置し、バングラデシュと国境を接する西ベンガル州に、「シュンドルバン」と呼ばれる世界最大規模のマングローブ林からなる無数の島々がある。この島々を舞台に、時代を超えた人々の出会いが『飢えた潮』に描かれる。
 ヒマラヤ山脈から湧き出たガンジス河は、他の川と合流しながらインド平野を駆け抜け、最後にシュンドルバンで海と交わり合う。大河と海が出会うシュンドルバンには、数千という島々が大小存在し、水路が網の目のように張りめぐらされている。「潮の国」で巡り合った人々を紡ぐ物語は、無数の流れが、相互に出会い、時に激しく、時に穏やかに流れ、そして形をも変えていくシュンダルバンそのもののようにも思える。
 中心となる物語が、ベンガルにルーツを持ちながら、この地では「よそ者」である二人の男女が、小さな駅のホームで出会うところから始まる。コルカタ生まれながら幼い頃に米国移住した若い女性ピヤと、コルカタ生まれで今はデリーで翻訳・通訳の会社を経営するカナイだ。アメリカの大学院でカワイルカを研究するピヤは、カワイルカの生態調査のため潮の国を訪れようとしている。一方、中年男性のカナイは、亡くなった叔父が残した手紙を受け取りに、かつて少年時代に一時期を過ごしたルシバリを訪問するところだ。このルシバリには、カワイルカに詳しく、ピヤの調査の案内を務める漁師のフォキル、フォキルの妻で見習い看護師のモイナ、彼らの子供のトゥトゥル、家内の伯母でNGOの運営者でもあるニリマが暮らす。そして、今は亡きフォキルの母クスム。偶然に導かれるようにピヤとカナイはルシバリで再会する。潮の国の物語には次々ととても魅力的な人物が登場する。
 アミタヴ・ゴーシュは、一九五六年生まれのインドの英語文学を代表する作家の一人だ。インドで歴史学を学び、英国のオックスフォード大学で社会人類学の博士課程を終えたゴーシュは、自分の作品において、個人を超えた大きな歴史や世界の動き、そうしたものが個人にどんな影響を与えていくかを常に考えている小説家でもある。この『飢えた潮』に登場する人物たちには、一九四五年インドの「分離独立」とバングラデシュの独立に際するインドへの難民の移動という歴史上の出来事が影を落としている。いずれの出来事においても、今のバングラデシュから、多くのヒンドゥー教徒がインドに流入したと言われている。ゴーシュは、マクロレベルで起きる世界の歴史や出来事とそれがミクロな個人の生活にもたらす影響を丹念に描き出す。それはまるで、大きな潮のうねりから生まれる無数の小さな泡の一つ一つを拾い上げるかのようだ。ゴーシュは、カナイの伯父のニルマルに語らせる。
 「恐ろしいのは、嵐が過ぎた後、その嵐の前におこったことどもは全て跡形もなく忘れられてしまう」
 「わずかでもその痕跡を残し、世界がそれを思い出す手がかりを残しておく」
 「潮の国」に暮らす登場人物たちのささやかな暮らしも、争うことのできない社会や政治の大きなうねりに巻き込まれていく。彼らは貪欲な潮に飲み込まれ、流される。だが、そうして流され、行き着いた先で、居場所を見つけ、新たな環境に対応し、逆に流れを利用し、時には声をあげて戦い、それぞれが生きていく。とりわけ、漁師のフォキルの生き方は印象的だ。マングローブ林でフォキルがピヤを案内しながら歌う歌は、その地で語り継がれている神様ボン・ビビと悪魔のドッキンライの物語で、アラビア語とベンガル語が混じり合う不思議な言葉で語られる。潮の国で何世代にもわたって受け継がれてきた豊かな物語が息づき、この物語がシュンドルバンを形作ってきたと思わせる。
 『飢えた潮』に描かれる遠くの潮の国の人たち。彼らも、彼らの前に存在した人たちも、「生きた軌跡」を残した。同時に、私たちが生きることも出会うことも奇跡であり、私たちが「生きた軌跡」も残される。
 これまでとこれからの出会いを愛おしく思わせてくれる一冊。(翻訳者)

「図書新聞」No.3597・ 2023年07月01日(土)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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