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眞鍋惠子評 イアン・ボストリッジ『ソング&セルフ――音楽と演奏をめぐって歌手が考えていること』(岡本時子、アルテスパブリッシング)

音楽好きのあなたへ――音楽家の心の内をのぞき、音楽への新しいアプローチを

眞鍋惠子
ソング&セルフ――音楽と演奏をめぐって歌手が考えていること
イアン・ボストリッジ 著、岡本時子 訳
アルテスパブリッシング
音楽好きのあなたへ――音楽家の心の内をのぞき、音楽への新しいアプローチを
■イギリスを代表する世界的テノール歌手による音楽とアイデンティティにまつわる評論集である。「世界に名だたるスーパーテナーの書いた評論ってどんなもの?」と思われる向きもあるかもしれない。著者イアン・ボストリッジの少し異色な経歴を知れば、本書『ソング&セルフ』の趣もつかみやすいだろう。
 現在世界中でめざましい活躍を続けているイアン・ボストリッジ。世界中の音楽祭、カーネギーホールなどのコンサートホール、ウィーンやパリのオペラハウスで舞台に立つ。ベルリンやウィーンの交響楽団と、またそうそうたる指揮者たちと共演してきた。オペラや歌曲の録音も多く、グラミー賞を含め数々の賞を受賞している。二〇二四年一月には来日し、六回の公演を行った。だが、その経歴で目を引くのは歌い手としての軌跡だけではない。二十七歳でプロの歌い手となり、三十歳で大学を去るまで歴史学者であったことだ。オックスフォード大学で歴史学の博士号を取得している。
 その歌手がコロナ禍でライブパフォーマンスから遠ざからざるを得ない状況で、「歴史研究者としてのアイデンティティに立ち戻り」演奏してきた作品や取り組もうと考えていた作品について深く掘り下げたのが本書である。
 第一章では、ジェンダーを取り上げる。一六二四年のクラウディオ・モンテヴェルディ作曲『タンクレディとクロリンダの戦い』、一八四〇年のローベルト・シューマン作曲『女の愛と生涯』、一九六四年のベンジャミン・ブリテン作曲『カーリュー・リヴァー』。三つの異なる時代の作品を通して、アイデンティティの複雑さを検証した。『女の愛と生涯』の項では、シューマンと妻クララの複雑な関係を軸に作曲が分析される。ピアノ教師であるクララの父は、弟子シューマンと娘の結婚に反対した。しかもクララは当時スターピアニストでシューマンよりずっと有名だ。妻の音楽家としての才能はシューマンにとり賞賛の対象であり、同時に夫としてイライラの種でもあった。やっと結婚にこぎ着けた年に作曲されたこの歌曲には、愛情や嫉妬、葛藤があふれ、夫としての願望、妻との深い一体感まで内包されている。「この作品はさまざまな層が重なりあい構成され演奏されうるものなのだ」。その結果、歌詞に合わせて女性歌手が歌う従来のジェンダー概念が取り払われて、「将来わたしにも『女の愛と生涯』を演奏する機会が訪れることを期待している」と著者は述べている。
 第二章では一九二五~二六年に書かれたモーリス・ラヴェルの歌曲集『マダガスカル島民の歌』の背景にある歴史的政治的地勢図を読み解く。コンサートでよく上演され何度も録音されている、美しさと異国情緒に富む作品だ。しかし、その第二曲の歌詞は激しい。「白い奴らに気をつけろ」ではじまり、マダガスカルはヨーロッパからの侵入者たちを歓迎しない、と明言する。作曲者ラヴェルは一度もマダガスカルを訪れたことはない。一方、歌曲の原文の作者エヴァリスト・パルニーは一七五三年マダガスカル島近くのブルボン島で生まれたフランス人、つまりマダガスカル人を奴隷として支配する側だった。十五世紀からヨーロッパ諸国に目を付けられるも長年にわたり植民地化を拒み続けたマダガスカルの歴史も複雑だが、自由を求めるマダガスカル人の叫びを散文詩で発したパルニーのアイデンティティも混沌としている。心は反植民地主義と反奴隷制に向いていたものの、実際には植民地主義からも奴隷制からも恩恵を受けていた。幼少期にはマダガスカルの人々から教育を受け、その言語にも魅了される一方、十八人もの奴隷を相続し、『マダガスカル島民の歌』出版の年には彼らの売却もしている。著者は言う。「白人のヨーロッパ人にこれを歌わせ、それがものがたる政治的な歴史を具体的に表現させるのは、どうにもしっくりとこない」。
 第三章は死をめぐる瞑想。ベンジャミン・ブリテンのオペラ『ヴェネチアに死す』(一九七三年)や同時期に作られたルキノ・ヴィスコンティの映画も登場する。著者は「死はすべての終わりであり音楽は死に語りかけるものである」とする一方、自身が出演したオペラのラストシーンに「生が絶え間なく引き継がれていく」光景を見ている。
 ボストリッジは自分の演奏を聴くのと同様に、読者に本書の複数のテーマや解釈へのさまざまな反応を期待している。音楽は常に多様な問いを投げかけるものだと考える著者は、歌と溶けあうことで直感的なひらめきや答えのないものとの共存を得る。本書では通常コンサート・ホールでは発せられない問いを音楽にぶつけ、読者と一緒に思考をめぐらす。本書がいざなってくれるのは、ボストリッジと共に踏み出すアイデンティティをめぐる冒険だ。
(翻訳者/ライター)

「図書新聞」No.3632・ 2024年3月23日に掲載。https://toshoshimbun.com/
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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