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柳澤宏美評 スタニスワフ・レム『捜査・浴槽で発見された手記』(久山宏一/芝田文乃訳、国書刊行会)

手ざわりのある想像力の世界――『ソラリス』の前後に発表された、ジャンルを明言できない「境界線上の作品」、「つかみどころのない」長編二編がポーランド語からの新訳で収録

柳澤宏美
捜査・浴槽で発見された手記
スタニスワフ・レム 著、久山宏一/芝田文乃 訳
国書刊行会

■手ざわりのある想像力の世界
スタニスワフ・レム『捜査・浴槽で発見された手記』(久山宏一/芝田文乃訳、国書刊行会)書評 柳澤宏美

 ポーランドの作家スタニスワフ・レムはSF小説の大家として知られる。人類とはまったく別の異質な存在との「ファースト・コンタクト」を描いたとして広く知られている代表作『ソラリス』は二度の映画化もされており、小説ではなく映画からその名を知った、という人もいるだろう。本書では、『ソラリス』の前後に発表された長編二編がポーランド語からの新訳で収録されている。どちらも解説にもある通りジャンルを明言できない「境界線上の作品」で、さらに「つかみどころのない」作品だ。
 『捜査』は冬のイギリスを舞台にしたミステリーだが、ストーリーはその枠に収まらない。遺体安置所から遺体が動く、消えるという不可思議な事件の会議から物語は始まる。刑事、検死医、統計学者が集まり、これまでの経緯をふまえて動機や方法についてそれぞれが意見を述べるが、すべてが推測の域を出ない。次に起こる事件を大胆に予測した統計学者が大笑いをしながら退席して第一章は終わる。会議に参加していた刑事グレゴリーは事件に並々ならぬ感心を持っているようで、本件の担当になるが、捜査への向き合い方は独特である。犯人について何か知っているようなそぶりを見せる上司や死体が動くのは病気の罹患率と関係があると主張する教授とのやりとりを通して、未知のウイルスや人間以外の存在が事件を起こしているのだろうかと思わせるが、事件の解決には結びつかず、不可解な印象を強めるだけである。
 『浴槽で発見された手記』は、「まえがき」とそこで言及された手記の記載、という形式の小説である。まえがきでは、三千年前にもたらされた「パピル分解疫」によって〈大崩壊〉と呼ばれる紙の消滅が起こったこと、それによって引き起こされた壊滅的な被害が語られる。続いて収録される『新第三紀人の記録』は〈大崩壊〉後に奇跡的に発見された数少ない紙の記録である。この史料は〈庁舎〉と呼ばれる巨大な建物のなかで「指示書」を求めて彷徨う人物の手記であり、〈庁舎〉は「ペンタゴン」と呼ばれる地下建造物を指し、そこで組織されていた集団の記録であることが「まえがき」で示されている。建物を彷徨う中で入れ替わり立ち替わりさまざまな人物が現れるが、誰が本当のことを言っているのかはわからず、さらに挨拶や名前、文学でさえも「暗号化されている」などとのたまう人物が出てきて、何も信じることができない。果たして記録自体をどこまで信じていいのかも不明なままで、もはや喜劇なのか悲劇なのかもわからない。過去の手記を収録するという構造は、ポーランド貴族ヤン・ポトツキによる小説『サラゴサ手稿』との類似が指摘されている。またフランツ・カフカや二十世紀ポーランドの作家ヴィトルト・ゴンブローヴィチとの類似性も指摘され、スパイ小説とも不条理小説ともディストピア小説とも読める。
 難解な二作品だが、どちらも細かい描写と綿密な設定によって読者を惹きつける。『捜査』ではイギリスの地名がたくさん登場し(実在するものもしないものもあるらしい)、グレゴリーが彷徨う街の様子、住んでいるヴィクトリア朝時代の家とその家主である老夫婦の行動が克明に描写されている。「古い二階建ての建物で、大聖堂にふさわしいような正面玄関、険しく複雑な屋根、分厚くて暗色の塀、予想外のところにたくさんの曲がり角や凹室(ルビ:アルコーブ)がある長い廊下、空飛ぶ生き物か何かのために造られたような高い天井の部屋部屋があった」や「浴室まで行くのに、グレゴリーは廊下とガラス張りの回廊を経巡らなくてはならず、階段から彼の部屋までの道は、金メッキがはがれた黒ずんだ浮彫、ガラスのシャンデリア、隅にある六枚の鏡を勘定に入れなければほとんど空っぽのドアが六つある客間を通り抜けて続いていた」という描写、その家のなかでは老夫婦がそれぞれ日中と夜に音をたてながら理解不能な作業を行い、霧の出る日に死体が動く、という事件と相まってゴシック風だ。『浴槽で発見された手記』では〈収集部〉〈神学部〉〈暗号部〉〈通信記録課〉といった部署で〈庁舎〉が組織されていること、さらに「総司令官」「指揮官」「少佐」等の軍人、そのほかに「修道士」「秘書」「文書保管官」といった役職があることが示される。同時に「廊下に並んだ光輝く白いドア」や「大きなエレベーターが仕事へと急ぐ集団を吸い込んでいた」などの〈庁舎〉自体の描写は無機質な組織を感じさせる。これらの描写によって読み手は現実からかけ離れた世界の手ざわりを感じ、話に入っていくのだろう。二十世紀の歴史との関連も指摘されており、当然読み手もそれを連想するが、一方でこの手ざわりのある世界は、完全な想像の世界における登場人物たちと我々との共通点を感じさせるのだ。
 (学芸員)

「図書新聞」No.3647・ 2024年7月13日号に掲載。https://toshoshimbun.com/
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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