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吉田遼平評 エリザベス・ボウエン『マルベリーツリー』(ハーマイオニー・リー編/甘濃夏実、垣口由香、小室龍之介、米山優子、渡部佐代子訳、而立書房)

エリザベス・ボウエンが小説に込めた思い――「より良き時代」に戻るための二つの道

吉田遼平
マルベリーツリー
エリザベス・ボウエン 著、ハーマイオニー・リー 編、甘濃夏実/垣口由香/小室龍之介/米山優子/渡部佐代子 訳
而立書房

■あなたにとって「より良き時代」とは過去か、それとも未来か?そう問われたとき、迷わず「未来」と答えられる人が今の世の中に果たしてどれだけいるだろう。不穏な空気が漂う先の見えない未来の世界よりは、これまで自分が味わった幸福な体験が確実に存在していると分かっている過去の世界の方が、「より良き時代」と呼ぶに相応しいと感じる人は多いのではないだろうか。
 エリザベス・ボウエンが出した答えもまた「過去」であった。しかし幸福な記憶に浸るためだけに彼女はそれを選んだのではない。過去にあるのは当然幸せな出来事ばかりではないはずで、その事実からボウエンは目を背けなかった。また、本書の中でボウエンはその「より良き時代」に戻ることの必要性を主張しており、そのための手段として、自分が直接経験した過去を思い返すことの他に、更にもう一つ別なものがあると述べている。
 昨年二〇二三年は、二十世紀を代表する英国作家、エリザベス・ボウエン没後五十年という節目の年だった。本書は伝記作家・批評家のハーマイオニー・リーが、ボウエンのノンフィクション作品に焦点を当てて精選し、一九八六年に出版したものの翻訳であり、リーが序文で述べている通り「ボウエンの小説と短編を読む本質的な手引き」(七ページ)となる。
 本書のタイトルにもなっているマルベリーツリーとは、ボウエンが一九一四年から一七年まで通った女子寄宿学校の裏に生えていた桑の木のことだ。少女たちはその木を背景に、シェイクスピアの劇を演じていた。ボウエンは周りに順応しながらそれなりに充実した学校生活を送っていたが、そこには第一次世界大戦が常に暗い影を落としていた。毎日多くの英国軍人が自分たちのために戦い、死んでゆく。自分たちの生は他人の犠牲の上に成り立っているという心理的責務ゆえに、彼女らの学校生活は非常に抑圧されたものとなった。ボウエンにとってマルベリーツリーとは、自由を享受しきれなかった過去に対する、失望の象徴である。
 二十世紀という新たな時代を迎え、希望に満ちていた当時の人々の、未来は「より良き時代」になるはずだという自信は、第一次世界大戦によって無残に打ち砕かれた。そして続くアイルランド内戦と第二次世界大戦によって、人々は生きていく意味を完全に見失ってしまった。しかし、それでも「生きていくためには、どんな形であれ、私たちは人生を愛さなければならない」(七二ページ)と考えたボウエンは、「より良き時代」へ戻ることの必要性を説き、そこに至るための二つの道筋について考察している。
 一つ目は冒頭でも述べたように、自らの過去を辿る道筋である。記憶は唯一無二の自己同一性をその人にもたらしてくれるので、「いかなる瞬間であろうとも、ある瞬間を鮮やかに追体験するということは、その人が存在していたことだけでなく、今現在も存在しているということ」(七三ページ)を実感させてくれる。したがってそれは必ずしも完全に幸福な記憶である必要はない。ボウエンにとってのマルベリーツリーのように、たとえそれが負の意味合いを帯びた記憶であったとしても、あの時自分はあの場所にいたのだ、という確信を与えてくれさえすれば、それは紛れもない「より良き時代」の証拠であり、そこから自分は今もこの世界に存在しているのだという実感が湧いてくる。
 そしてもう一つの道筋とは、作為的記憶、つまりフィクションである。それによって私たちは自分で直接体験したことがないことを疑似体験することができる。優れた芸術は永遠に失われてしまった理想的な過去の時代へ人々をいざなうものだ。誰しも小説を読んでいるときに、一瞬にして過去の物語の世界に引き込まれて心を揺さぶられ、現実世界以上に生きている感覚を味わったことがあるのではないだろうか。
 ボウエンは生涯で十編の長編小説と約九十の短編小説を残した。彼女は社会のために小説を書くことはせず、あくまで自己との対話を目的としていた。しかし結果として、のちに多くの読者が彼女の作品に描かれた「より良き時代」を疑似体験することで生きる価値を再発見し、自分の人生を愛せるようになったはずだ。頭の中にある記憶は自分一人しか辿ることを許されないが、フィクションとしての過去はそれに触れた多くの人に共有され、その心を救うのだ。
 戦争は全てを破壊し、人々から生きる希望を奪い去った。しかしその時代を描いたボウエンが残した作品は、現代を生きる私たちにそれを与えてくれる。ボウエンが小説に込めた思いを是非本書から直に受け取って欲しい。  
 (高校英語教師/翻訳者)

「図書新聞」No.3649・ 2024年7月27日号に掲載。https://toshoshimbun.com/
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。


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