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Mr.Children言わせてみてぇもんだ 大切なことは知っている

Mr.Childrenのアルバム「シフクノオト」収録の
言わせてみてぇもんだ』の
フレーズ

大切なことなんてきっと知ってんのに
僕らは遠回りをしているんだね
なら意味ある遠回りを


日々何気なく気づくことがある
気づきとは何か?

魂の成長?

最近思うのは 気づく=腑に落ちるではないかと

人は生まれてくる時に
自分で設定をしてくるとよく聞く

全てを知っていて、生まれる時に忘れてくる

それを何かのきっかけで 思い出していく
それが”気づき”なのかと
「そうゆうことだったのか!」
と腑に落ちる感覚
これは知っていたことを思い出した感覚なのでは…

私は宗教の信者ではないけれど
お坊さんや牧師さんの説教を聴くのは嫌いじゃない

その言葉の中に真実があると思う
解釈の仕方はいろいろなのだろう


例えば
誰もが聞いたことがあるだろう言葉
”汝求めよさらば与えられん”


素直に宗教的な考えは無視してみると
意識を望むことにフォーカスし行動すれば
その状態に持っていくことができる
または 知りたいことがある時
そのことにフォーカスしてれば
答えが自分の中で見つかる
と私は解釈をしている
”願えば叶う” ”祈りの力”みたいなものだ



宗教的にみてしまうと
”キリストという神が私たちの願いを叶えてくれる”
”正しい導きをくれる”
という感じの他力本願に聞こえて
信憑性に欠ける

でもキリストを宇宙意識とかに置き換えると
”自分の願いを宇宙に委ねたら叶いそう”
”わからない時は宇宙の流れに任せればうまくいきそう”
という気になる

さらに神を自分と置き換えれば
”叶えたい願いに意識を向け行動すれば必ずかたちになる”
と急に現実味をおびてくる

一神教の絶対神としての解釈に聖書上なってるが
”神に求めよ、そうすれば誰にでもは差し伸べられる”
と言った感じだろうだけれど
私には ”神=自分”に置き換えた方が
聖書の文句など腑に落ちたりする

自分はそれを知っている。
と思うことがある


神社に行けば手を合わせて神に祈る
でもそれはいつも神社の神様に手を合わせ
どこか遠くの方に祈りながら
自分の中の神性にも祈っている

神とは自分の中にいる
といつも思っている
あくまで無宗教の私の個人的な意見だけど
キリストもそれを説いていたのではないかとも思う
それぞれ自分の中の神や周りの人の中の神について
みんな忘れてるだけで知ってるのだから
その言葉で真実を思い出すようにと



この曲を聞いた時 このフレーズは
私の中ではその思いに当てはまった。


大切なことなんてきっと知ってんのに
僕らは遠回りをしているんだね
なら意味ある遠回りを



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