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本人の食べる権利は?〜たんぽぽ寿司〜

 余命1週間と宣告され、当院に転院後、わずか1週間で箸やスプーンを使い、自ら食事ができるようになったサトシさん。「退院のお祝いに何が食べたいですか?」との質問に、「寿司が食べたい!」とサトシさんは元気に答えました。
 そこで、調理場厨房の板前が腕を振るい、寿司をお出しすることにしました。寿司ネタは当日仕入れたマグロにタイやサーモン。サトシさんが食べやすいように、ネタも寿司飯も、なめらかなムース状にして作ります。それらを桶に並べ、サトシさんの目の前で板前が握るという本格的寿司屋「たんぽぽ寿司」を病床の食堂に開店したのです。サトシさんは、「まぐろはないんかな?」と、食べたい寿司を注文し、「クーーッ」とうなるように首を左右に振りながら、大きなグラスでビールを飲み干しました。「夢を見てるよう」と言ってサトシさんは喜ばれました。
 退院して自宅にもどってからは、宅配でムース食のお弁当をとり、介助もなく自分で全部食べることができたそうです。もし、サトシさんが点滴やチューブをしたまま、病院のベッドで過ごしていたら、宣告通り1週間後に亡くなっていたかもしれません。サトシさんが復活できたのは、妹さんがサトシさんの死を受け入れ、点滴をやめて自然に看ることで、食欲が湧いてきたこと。そして、終末期であっても、口から食べる支援をあきらめなかったことにあります。
 終末期をどう過ごすのか、その選択肢を示すのは医師の仕事です。患者さんがどのような最期を望むのかを考えず、医療による延命だけを考えていては、患者さんも家族も延命以外の選択肢を選べません。だからと言って、何もしない医療を選べというのではありません。「延命をせずに、食べられるだけ食べて、自然に看ていくこと」と、「もうすぐ亡くなるから何もしないこと」とは、まったく別なのです。人生最期の時は絶食でいいのでしょうか? 本人には食べる権利があるはずです。死に向き合って、どんな最期を迎えたいかと考えた時、本人が望む選択肢がみえてくるのではないでしょうか?
 医療は人の命を救うもので、医療従事者は、病気やけがを治すことを大切にしています。しかし、日本は超高齢社会になってもなお、治療すること、生きながらえることだけを優先し、人としての尊厳が後回しになっているように感じることが時にあります。「終末期であっても口から食べる取り組みをする」ことは、今後、日本人の看取り文化や生き方の価値観を変えることにつながると私は考えているのです。 

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