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ノーベル平和賞のチュニジアだけが民主化に「成功」した理由

(再録:初出ニューズ・ウィーク日本版2015年10月15日)

チュニジアのアンナハダの第9回党大会 前列中央で演説しているのがガヌーシ党首=2012年7月筆者撮影


 2015年のノーベル平和賞は「多元的な民主主義の構築に寄与した」という理由でチュニジアの「国民対話カルテット」が受賞した。労組や人権組織、弁護士組織など4つの組織の連合体である。2011年にチュニジアから始まったアラブ世界の民主化運動「アラブの春」はアラブ世界に波及したが、民主化の命脈を保っているのはチュニジアだけとなった。

 25万人の死者を出し、400万人を超える難民を出しているシリア内戦はいうまでもなく、イエメンやリビアもほとんど内戦状態であり、2011年に非暴力で強権体制を倒し、世界中の称賛を集めたエジプトも、選挙で選ばれたイスラム系の大統領が軍のクーデターで排除され、強権体制に逆戻りした。

 いま、思い出したかのようにチュニジアの市民団体にノーベル平和賞が出るというのは「アラブの春」への鎮魂歌のようでもあるが、唯一、世俗派とイスラム派が共存することで残ったアラブ民主化の試みを顕彰し、将来の希望として託す意味は大きいだろう。

エジプトとの違いは、軍の強さではなくイスラム系組織の強さ

 なぜ、チュニジアだけ民主化の流れが残ったのだろうか。共に平和的革命だったエジプトとの比較で、よく言われるのは、チュニジアにはエジプトのような強い軍が存在しなかったということだ。しかし、軍の強さ、弱さの問題ではないだろう。チュニジアでも政治的な対立は深刻だったし、ゼネストなどで混乱が激化していたら、軍が動く可能性はあっただろう。「国民対話カルテット」の功績は、「世俗派対イスラム派」の政治的な対立を対話によって克服し、市民社会を守ったことである。

 なぜ、エジプトではそのような対話ができなかったのか。私がチュニジアとエジプトを比べて思うのは、革命後に選挙で勝利して政権を主導したイスラム系組織の強さの違いである。チュニジアのアンナハダはエジプトのムスリム同胞団の流れをくむイスラム穏健派だが、ベンアリ体制の下で1992年以降、政治活動を完全に抑え込まれていた。革命後にアンナハダのメンバーに取材したところでは、組織だけは維持したが、社会に向けての活動はできなかったという。

 一方のエジプトのムスリム同胞団は、50年代、60年代のナセル時代に非合法化され弾圧されたが、70年代のサダト大統領時代に非合法のまま活動を黙認された。80年代には医師、技師、法律家、薬剤師などの職能組合選挙を制して主要な組合運営を支配するようになった。2005年の議会選挙では政権の弾圧の下で議席の19%に当たる88議席をとるほどの力を持っていた。

 革命後、最初の議会選挙でどちらも第一党となった。チュニジアのアンナハダは41%の議席をとり、エジプトでは同胞団が創設した自由公正党が43%の議席と、結果に大きな差はなかった。しかし、その中身はかなり違っていた。同胞団は組織をフル動員して集めた組織票だったのに対して、20年近く活動を禁止されていたアンナハダにはそれほどの組織票はなく、イスラムを掲げたアンナハダに対する貧困層の期待が集まったという印象だった。

チュニジアでも革命後、イスラム厳格派の勢力が強まった

 チュニジアと言えば、アラブ世界の中でも西洋的で世俗的というイメージが強い。それはイスラムの教えに基づく慈善運動さえ禁止し、熱心にモスクに通うだけで警察に目をつけられるというようなベンアリ時代の世俗化強制によって作られたものだった。圧力がなくなって、革命後にイスラムが表に出てきた。首都チュニスの中心部でもベール姿の女性が増え、アンナハダの拠点となった旧市街では伝統的イスラム色が強くなり、首都を出て地方に行くと、イスラム色はさらに強くなった。
 2012年の年末、私はチュニジア革命発祥の地となったシディブジドを訪ねた。その2年前に市場で野菜を売っていた失業青年が女性警官に暴言を吐かれたことから焼身自殺し、それが全国的な反政府デモの引き金となった。革命発祥の街では、「サラフィー主義」と呼ばれる、あごひげを伸ばしたイスラム厳格派の集団が市場を自主的にパトロールし、病院などの公共施設の警備をする一方、アルコールを出すホテルが「反イスラム」として襲撃されて、アルコールの瓶がすべて割られるなど、まるでイスラム厳格派が支配するような状態になっていた。

 サラフィーの台頭は革命後のエジプトでもあった。同胞団系政党に続いて25%をとり第2党となったのは、サラフィー主義のヌール党だった。チュニジアでは革命後の選挙にサラフィー政党は参加しておらず、アンナハダが唯一のイスラム政党だった。2011年の選挙では、世俗主義に反発する「イスラム票」はアンナハダに投じられた。

 しかし、革命前に20%台後半だった若者層の失業は、アンナハダ主導の政権のもとで30%を上回り、いっこうに改善しなかった。イスラム穏健派への失望、反発が広がり、シディブジドで見られたような徹底したイスラムの実施を求める厳格派が各地で広がった。南部の山岳地帯では、アルカイダや「イスラム国」とも近いイスラム厳格主義の過激派「アンサール・シャリーア(イスラム法の信奉者たち)」に対する治安部隊の掃討作戦も始まった。

過激派という共通の敵があったから始まった「対話」

 2013年夏までに二人の野党系政治指導者が暗殺され、世俗派支持者とアンナハダとの対立が深まった。暗殺はアンサール・シャリーアの犯行が疑われたが、アンナハダが主導する政権に対して過激派対策が甘いと批判が強まった。そのころ、エジプトでは若者たちがムスリム同胞団出身のムルシ大統領の退陣を求めた大規模デモが起こり、直後に「混乱収拾」を理由に軍がムルシ大統領排除を宣言した。そうして、チュニジアもエジプトと同じ道をたどるのか、と注目が集まる中で、「国民対話カルテット」が組織され、与野党の対話を仲介し、新憲法制定と2014年の大統領選挙・議会選挙が実施され、民主化が維持されたのである。

 チュニジアの対話は「穏健イスラム派と富裕層世俗派」の間で行われた。チュニジアでもエジプトでも、独裁時代に政府批判勢力だったイスラム政治組織が革命後の選挙で勝利して政権を主導したが、独裁大統領とその家族、側近が排除されただけで、独裁下の旧支配層はそのまま残っていた。エジプトでは軍とつながる旧支配層にとっての脅威は、慈善運動で貧困層とも結びつき、組織票で4割の議席をとることができる強大なイスラム穏健派のムスリム同胞団そのものだった。チュニジアの旧支配層にとっての脅威は、穏健イスラムのアンナハダではなく、革命後に若者たちの間に広がった過激なイスラム厳格派だった。

 エジプトでは軍と富裕層・世俗派が同胞団を敵視して排除したことで、同胞団が代表していた半分の民意も一緒に排除された。それが、いまもエジプトの政治的混乱として続いている。一方のチュニジアではイスラム政権と旧政権支配層の間では、過激派という共通の敵から市民社会を守るために「対話」が可能だった。対話を経た後の2014年の議会選挙は、世俗派政党「ニダ・チュニス」が128万票(得票率40%)で第1党となり、アンナハダは95万票(32%)に止まり、第2党となった。平和的な政権交代が行われたことが、「国民対話」の最大の成果である。

 しかし、これで「めでたし、めでたし」とはいかない。今年3月にあったチュニスでの博物館襲撃事件や6月に中部スースのリゾートホテルを襲った銃乱射事件など、イスラム過激派による深刻なテロ事件が続いている。チュニジアでのイスラム過激派の脅威にどの程度の広がりがあるかを知ろうとすれば、民主的選挙からドロップアウトしている部分に目を向けなければならない。

チュニジアがまだ成し遂げていないこと

 2014年の議会選挙の投票総数は、11年選挙の430万人から358万人へと72万人減っている。特にアンナハダは11年選挙での得票150万票から55万票も減らしている。ほかにイスラム政党ができたわけではないのに、3分の1の得票を減らしたのは、長年活動を禁止されていたための組織力の弱さゆえだろう。減らした得票数の多くは穏健派路線を見限ったイスラム厳格派と考えることができるだろう。

 チュニジアの14年選挙は一般にはニダ・チュニスとアンナハダの「世俗派対イスラム派」の構図で捉えられ、世俗派が勝利したと評価されている。実際には「世俗派対穏健イスラム派」の争いである。どちらも支持せず、選挙を拒否しているイスラム厳格派という第3の勢力が存在する。それはどの程度いるのか、アンナハダが減らした55万票か、減った投票総数の72万票か。

 独立選挙管理委員会のサイトに、有権者総数の推計は780万人超という数字があった。有権者の半数以上が投票してないのである。そのうちどの程度がイスラム厳格派の支持者かは分からない。世俗派の市民組織が主導した「国民対話カルテット」は、アンナハダというイスラム穏健派を取り込んだ形で民主化の命脈をつないだが、政治の足場は非常に脆弱である。チュニジアの問題は、投票しなかった半分の国民との関係を今後、どう修復し、政治に関わらせていくかにある。特に、イスラム厳格派との関係である。

 イスラム厳格派=サラフィー主義者は本来、過激というわけではない。世俗主義の価値観によって政治や社会から排除されれば過激化するものが出てくる。チュニジアの世俗派にはイスラム厳格派を自分たちと相いれないものととらえる意識が強い。もちろん、厳格派の側も同様である。互いに排除しあえば、国は深刻な分裂状態に入っていかざるをえない。

 チュニジアがこれまでに達成したのは「世俗派とイスラム穏健派」の共存であって、「アラブの春」の後に中東に蔓延したイスラム厳格派との対応は手がついていない。「テロ対策」として排除するだけでは、過激派組織「イスラム国」の支持者を増やすだけとなる。今回、ノーベル平和賞の受賞理由となった「多元的な民主主義の構築」は、実はこれからが正念場なのである。

※初出ニューズ・ウィーク日本版2015年10月15日


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