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家庭の不穏を解消させる

前回は、自分の育った家庭環境から受けてしまった傷に対するお話を書きました。

改めて読んでみると話が深まったところで途中退却のようになってしまっていました。

実は、あの日は本当に心の痛みが強く、書くのも限界になってしまっていました。

今はだいぶん痛みは軽くなり、シクシクとした痛みが感じられる程度です。

途中だったので、書き留めていたほうがよいことを書いてみたいと思います。

私は親の監視や強要が強すぎた家庭の状態が、9年間ぐらいはあったんですね。
親というか、教育の強要をしてしまっていたのは母でした。
一方で父は、お金を稼いでくるのが役割として、自分は家族を食べさせている。と、家庭のことは母に任せて、割り切ってしまっていました。

当時は思うことは出来なかったけれど、時代背景であるとか、父の育ちであるとか、(父は、父親を早くに亡くしていて、父親がいない生活でした)母の育ちであるとか、(母は、やはり、何でも一番になりなさい!というような母に育った)などを考えてみると、個人の問題のようで、そうとは言い切れないものだと思うようになってきました。

母に対しては、5年ぐらいかけて、父に対しては、私が母の父が亡くなった時に、父が、「自分は家のことを全部、母に任せてしまい、父親らしいことは何もしてこなかった。そんなことも考えると、天国なのか地獄なのかというと、地獄に落ちると思っている」と、懺悔の言葉を姉と私がいる場で言ったんです。

それを聞いた私は、ザザーッと涙が出てきて、「ああ、これで、父が必要になった時、私は嫌がらず、面倒がみることができるな。。」と思いました。それまでは、実家に電話をして父が出ると、話がしたくない気持ちで言葉が出ず、すぐに、「母に変わって」と言っていました。

家庭環境は人それぞれに違っています。
風とおしがよく、助け合いというものが普通にあり、互いが家族のようによい干渉をしあえる風土というものがあれば、私の育った環境のようにはならなかったのでは、とも思います。

母は、自分の母親の近くに暮らせていた時は、まだ、穏やかさを保っていられたということもありました。転勤族だったので、もともと、人づきあいが苦手な人だったというのもあり、気丈な人でありますが、繋がりがなく、孤独感というものもあったと思います。
父とも、心の繋がりは持てていませんでした。
転勤をして移動したあたりから、子どもたちへの監視を強め、安らぎがない不穏な場所になっていってしまったのだと思います。

今回、父に対しても、母に対しても、たくさんの時間をかけ、ゆるす。ということは、できていると認識していました。 


父と母の弱さも思いますが、うまくはなかったとはいえ、子どもに対して、よい学校に行ってほしい。そのほうが、よい人生が送れる。という思いがあったのも、また、間違いないと思うんですね。

それでも、今、私は新たに、育ってきた環境から痛みを感じています。それを解消するために自分のエネルギーも使っています。 

父に母も恨んだり怒ってもいない。解消をしたと感じていたのに何故か?と問うと、安らぎがなく、凍りついてしまった家庭の空気感に対して味わってきた苦しみを痛みとして持ち合わせているんだと思いました。 

この話をある人にすると、私もそんな環境だった、という人がおられます。

よい家庭であった。と思う人も、一つ一つの場面で、どのように感じてきたか、痛みを感じることがなかったということはないと思います。


子どもを傷つけたいと思う親はいません。


親自身も親からの関わりで傷を負っていて、その傷を感じることもなく、分厚い壁を心に作ってしまった状態で、自分の親から受け継いだやり方を無意識に、反応として繰り返していってしまっているのではないかとも思います。
他にもいろいろな角度でいえることはあるでしょう。

今、世界情勢もとても不穏で、一発触発の危うさを感じるものです。

この時に、私たちが、何ができるのかというと、何については、外さずに焦点をあてて行わないとならないかというと、自分を含めた、心という、とても深く、全てのものと繋がり、また影響を与えるものに対する対処だと考えます。

掴みづらいことかもしれないし、何故、それがよその国の争いに対して、関係があるのか?と思うのかもしれませんが、ここの理解に繋げていくのを伝えるのは、とても骨が折れることでもあります。力不足、努力不足でもあります。

私の家庭であったように、何より大切にしたい存在に対して、刃を向けるということを人はします。人とはそういう側面があるものですよね。

家庭は、世界の縮図でもあります。
1人の人間という単位でもいえると思います。

様々な問題が噴出していて、政治に今、任せることもできない。
あらゆる対応が求められる中で、多くの負担を負えるだけ負っている方々に対し、敬意があります。今の自分はどれだけのものを負っているか?と問うています。

争いの根本原因はどこにあるのか。。?
それに対してどのようにしたらよいのか。。?
心のことは触れなく変われないことだと思いますか。。?


わかりづらいかもしれないけれど、心を改変させていくということ、病を治していくことに、心血を注いでいる人たちがいるということをお伝えしたいです。



自分のよくないところや心を改変していくこともまた、とてつもなく、力や勇気がいることです。ただ、これは、もう、失われることはなく、方向性や根っこからの基盤となります。
世界ではなく、まずは自分を制する。自分を制することができずに、世界の安定や安全はなく、一旦、限定的に治められたようであっても必ずまた、一時的なものにしかなり得ません。

愛は気分で変わるものではなく、刃に変わるものでもない。


自分を治めていき、関わる人のいのちに対して見守り、配慮を続ける。

そんな存在に自分がなれたなら、自分の人生だけでなく、関わる人の人生も大きく変えることになる。そして、その関わった人がまた、自分との関わりを持つ人の人生を大きく変えることになる。そんな連鎖を思い描きました。
今は、積極的、能動的に、行っていかなくては、間に合わないのだとも感じています。


わかりやすいところではなく、人知れずのところでも、世界をまわりながら、または、日常の何気ないところで働く大きな存在や人がいて、この世はギリギリに保たれているということ。これからの未来への影響もとても大きくあるということがあります。

乱文になってしまいました。

移動中でした。
春から移り住む和歌山に着きました。


私もしっかりと生きて、できることから逸らさず、人や物事と真心で関わって、行なっていきます。

それでは、みなさまも、素晴らしい時間をお過ごしください。








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