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生きるとは

今日は、義理の叔父のお葬式でした。


久々の親戚同士の顔合わせができ、有意義な時間にもなりました。


亡くなった叔父は、町単位での名士で、エリート街道をまっしぐらに生きてきた人でした。


喪主の息子さんは、「自分にとっては傍若無人な父であったが、外の顔はそうばかりではなく、「よくしてもらった」であるとか、「楽しませてくれる人だった」とお聞きすることができ、嬉しい気持ち。


天気が悪い日が続く中、今日は晴天で、みなさんに気持ちよく集まってもらうことができて、父は喜んでいると思います。こうやって、自分が泣けるとは思ってもいなかったです」と言われていました。


たくさんの含蓄がある場面でした。「えいちにいちゃん、泣くことができてよかったね。。」と思いました。


それぞれに与えられた人生ですが、「どのように生きたいのか」「何に力を注いで生きるか」という問いは、改めて大切だと思います。


また、亡くなった叔父さんの孫で、うちの長女と同級生の男の子がいます。

小学生の頃、たまたま娘との習い事が一緒だった時期があり、生真面目そうな子でした。

今、20才になっているのですが、芸術大学の放送学科に行っているのだそうです。
小学生時代の少し神経質そうな生真面目さから一転して、静かなやわらかさがある青年になっていました。


家にテレビがなかったというのもあってラジオをよく聞いていたとのこと。
ラジオの制作がしたくてディレクターという役割をしている。機械も好き。
分野的に自己主張が強い人が多いと感じていて、いろいろと事もあるといえばある。そのあたりの調整役などもすることになり、そこも含めて、楽しくもやっているのだそうです。


何回か、席が近くなることもあり話をしていました。


彼にとっては亡くなった方はおじいさんにあたります。
(「じいじ」とは呼んでいなかったであろうという感じでした)

おじいさんついては、


「自分の記憶があるのは、脳梗塞をした後だから、現役時代のばりばりな時期ではない。
感情をコントロールすることができなくなってしまったから、怒りであるとかの表出が子どものようにはっきりしていた。
お金が大好き。そして、自分が凄い。という思いがものすごく強い人だった。
たまたま、自分の近くに、凄く優秀な人がいないまま育ったんたんだと思う。
いつまでも負けを知らずに生きてしまった。

それについては、僕は不幸なことだと思っている。


脳梗塞で脳がだめになった部分がいくつかあり、様々なことが出来なくなった。


それでも、気になんてしていないようだった。
それは凄まじいぐらいだった。左半身が動きづらくもなっていた。
どうなっても「生きるという気持ちが強い人」だった。
それが自分には理解しきれず、もの凄いということしかない。


お洒落が好きな人だったから、スエットなんて着ていたくはない。よくスーツに着替えては、紐がある靴をはいて歩いていた。 
でも、靴紐は結べなくなっているから、結ばないままなんだけど、それを家族にさせるつもりはなく。
気づいているのか、それとも気にしないようにしているのか。
紐が結べていないままの靴で、颯爽と出かけては歩いていっていたんです。」


そんな、情景がまざまざと浮かんでくるような話をしてくれました。


状況や人を細やかにもまた俯瞰した視点からも捉えているなと。だから、特に望んでいないのに、ラジオ制作の監督役を任されることになるのかなと思ってしまいました。


強烈な個性を持つ叔父さんでした。

「武勇伝」といわれるものを人に語らせればきりがなく、話の中に現れてきそうな叔父さんの生き様は、一緒に暮らした家族に対し大きな波紋を与え、生きるとは。という問いを与えていたと感じました。



いまどきの小さな家族葬という形だったのですが、叔父さんとしては、もっと大きな会場で、お花がこれでもかといっていいほどにある祭壇に、たくさんの人が集まるお葬式にしてほしかったのではないか、とも思いました。



この話は終わらず、引き続いていくことになります。




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