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コロナ禍で仕方がなかったとは言え、続いてきた大切なものを簡易的な物に変えてしまった。それを罪というのなら

漠然と抱いている言うまでもないかもしれない不安なんやけど、
こういう事は多分他にも同じ立場にいる人もいるんじゃないかなと思うので、書いてみる。

私の場合は涅槃団子の事である。

私は村のお寺で涅槃会に作られる色とりどりの涅槃団子が好きだ。初めて見た時、なんと可愛いものがあるのだろう、と思った。一目惚れだ。なにより色粉で思いっきり派手なのが良い。田舎って実はそんなに無添加な世界では無く、味の決め手は味の素やで!みたいなとこある。でも私はそういうところを愛している。

涅槃団子はもともとお寺の梅花講のお姉様方が集まって、釜を出し、蒸し器を出し、10キロ程の米粉をみんなで捏ねて、その時しか出さないバカでかまな板とか餅つき機とか出して2日かけて作る。初日は1日仕事なので、みんなの分の飯も炊いてみんなで食べる。なんしか賑やかな、準備とはいえこれもひとつのイベントであった。私の知る村のお寺二箇寺とも同じような感じだ。
私はこの時間も最高に愛おしいと思っている。思っていた。

それがコロナ禍で無くなった。集まれなくなった。どうする?ってなって、
最初は全く無しで、って話になって。いやいやそれは寂しすぎる。お供え分だけでも作りますよ。
なんかレンジでも出来るらしいですよ。みたいな話になって、なったというか、私がした。してしまった。

こっちのお寺では三役さんで少数気鋭で作った。ただレンジという新しいやり方なのでお姉様方とネットの情報を睨めっこしながらも「ここどうしたら良いの?」とか聞かれるのが怖い。コレも新しいカタチなのだと受け入れるのか。

なるべく教えを乞う形で作っていく。
似て非なるものを作ってしまわないように。

思い出話が時折混じる。手を動かしながらおしゃべりするこの時間はやっぱり楽しい。

もう一つのお寺は作って差し入れする事になっている。烏滸がましいな、という気持ちもある。娘が「私も一緒に作る!」と張り切っているのが心の救いだ。

ここまで来て
あれ、この村の涅槃団子、結構私の手にかかってるのでは?と思った。

さて
ここで私が抱いてるのは「コロナ禍が落ち着いたら元に戻るのだろうか」という不安。

またあのワイワイと団子をみんなで作る日は戻るのだろうか。

このコロナ禍でみんな平等になんと3歳も歳をとってしまったのだから。この高齢化の村ではその事実が相当重い。

こういう事象や気持ちみたいなの、このコロナ禍できっとあちこちで起こっているのだろう。
良かれと思って提案した簡易的な事を「これからもコレでいいのでは」とこのまま切り替わってしまうのではないかという不安

私の解決策としてはこればかりは「私やりますよ〜大丈夫です!」ではなくて、これからは沢山の人に甘えて、一緒にやってくださいよ〜で行かなくてはと思っている。

コロナ禍で仕方がなかったとは言え、
続いてきた大切なものを簡易的な物に変えてしまった。
それを罪というのなら。

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