村越化石句集

ハンセン病短歌、小説などあれこれと読んできた。俳句ではどういった表現が可能なのだろうと、第一人者といわれている村越化石句集を読んでみる。

図書館にあった第八句集の『八十路』。その他の句集も古本ではなかなか少なくなってきている。平成19年の発行だがこの頃はご存命で、群馬の楽泉園の住所が後ろに書かれてある。

癩人の相争へり枯木に日

大野林火によると、最初は病のことを公表せずの作品だったが、一年ほどですぐにこのように堂々と詠んだ。この句は昭和25年頃。

顔にまざと柿食ふ癩児負けるなよ

大野は直接、楽泉園に行って俳句の指導をしたというが、「病める化石らに生くることの尊さを知らされた」と記す。

「癩者はこちらが手を差し伸べて一歩進めば、自分の病を知って一歩退く。こちらが一歩退けば、一歩向かってくる」これは当時の園長の言葉。患者さんたちは人の心の真偽をただちに見抜く、と大野は記している。

戦後、プロミンが日本に入り無菌者、退園者が生まれた。
しかし、後遺症の激しい人(塔の太田正一さんもそう)はそのまま、社会から取り残されたといっていい。

肉体はハンセン病で滅んでも、精神はそのために一層つよく健やかにかがやいたといってよい。

いえば民雄・海人な知らなかった無菌になってからの生きざまである。正に最後の癩文学が化石によって示されたといってよい。

同じく大野林火の言葉である。民雄は北条民雄、海人は明石海人である。


桜餅吾に晴眼の日のありし

見えぬ身のうしろ灯さる夜の秋

車椅子涼風ぐるみ運ばるる

水餅のつながり眠る夜の底

世の端のその端に住み柿吊す

諦めず生き来し命地虫出づ

これらの句に惹かれた。若き日の作品も読んでみたい。栗生楽泉園は重監房のあった場所である。見学もできるという。コロナが落ち着いたら行ってみる予定。


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