東畑開人『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』(書評ラジオ「竹村りゑの木曜日のブックマーカー」5月12日放送分)
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<収録を終えて>
ラジオでお話したように、臨床心理士の東畑開人さんが自身の経験をもとに書かれた本です。柔らかでコミカルな語り口の背景には、専門性の高い知識があり、読み手は物語を楽しみながらも臨床心理について学ぶことができる1冊です。作者の東畑さんは、この本を「学術書」よりも優しい「ガクジュツ書」として位置づけているのですが、その試みは沢山の人に評価され、2019年には朝日新聞主催の第19回大佛次郎論壇賞を受賞、2020年に紀伊國屋じんぶん大賞2020で大賞を受賞しています。
そもそも『居るのはつらいよ』というタイトル自体が、既に主題の伏線になっているという不思議な本です。
「居る」ことがどうして辛いのか、その違和感こそが、東畑さんから読者への最大の問いであり、私達はページを捲りながらその答えを捕まえに行くという仕掛けが施されています。作りが秀逸なのですね。
ラジオでお話したとおり、この本の中では「ケアとセラビーの違い」というテーマが、患者さん(メンバーさん、と呼ばれる)との交流の中で何度も登場します。同じ「人を癒やす」という目的であったとしても、ケアとセラピーではアプローチの方法が全く違うことを、私は初めて知りました。
私は、「眼の前の人を傷つけないこと、その人の安全地帯であることによって、その人が自然と癒やされていく」ことがとても大切だと思っているんですが、これは多分ケア的な生き方なのだと思います。
それに対して、「弱点を克服したり、自分を見つめ直すよう促す」という振る舞いは、セラピー的な生き方だそうです。
ただ、東畑さんは、「人が人に関わる時、誰かを援助しようとするとき、それは常に両方あり、糖分と塩分みたいなもの」という風に仰っています。セラピーの前にはやはりケアが必要だけれども、セラピーによってケアが進むということもあるということです。
ラジオの中では語りきれなかったのですが、「こらだ」の章もとても面白かったので、ちょっとご紹介させて下さいね。
「こらだ」というのは、「からだ」と「こころ」の境界線が失われてしまった状態のことを指します。余裕がなくなり、追い詰められたりして、自分のことをコントロールできなくなると、「からだ」と「こころ」を分けておくことができずに、私たちは「こらだ」になってしまうというのです。
デイケアに来る、精神疾患のある「メンバーさん」たちは、コントロールが苦手な分、「こらだ」になってしまうことが多いそうなのです。
でも、メンバーさんでなくとも、例えば恋をして食欲を失ったり、緊張して手先が震えたりしている時に、私たちの肉体と精神は混ざり合い、「こらだ」になっていると言えるそうです。
「こらだ」という言葉を知った時に、頭に浮かんだ歌詞がありました。RADWINPSの『なんでもないや』という、映画『君の名は』に使われたことで知られている曲のものです。
この歌詞を聞いた時の驚き、「君の心が君を追い越した」という表現がもたらした強烈な納得感を、今でも覚えています。そして、あの時の衝撃はまさしく、東畑さんの言うところの「こらだ」を、自分をコントロールできないあの状態を『なんでもないや』の歌詞が言い当てたからなのだなと、振り返った今思うのです。
本でも、映画でも、音楽でも、アートでも、何かコンテンツに向き合い続けていると、時にこんな発見があります。無関係同士のコンテンツが数年の時を経て結びつき、伏線を回収するのです。
ちなみに、『なんでもないや』の歌詞には、こんな一節もあります。
実は『居るのはつらいよ』の中で、「バランスを欠き、コントロールを失った『こらだ』は、ほかの『こらだ』と一緒にいることで落ち着きを取り戻す」と東畑さんは語っています。
それを踏まえると、『なんでもないや』は、コントロールできない、どうしようもなく「こらだ」を抱えた2人の歌であり、そのことを直感的に私達は悟ったのではないかと思うのです。
慰めたり、励ましたりして、人は人を癒やす。
そして、それを代わりばんこにすることで、癒やしが続いていく。
そんな生き方を、選び取るとこができればどんなにいいでしょうか。
実は、東畑さんの沖縄でのお仕事は、思いがけない形で終わりを告げることになります。その去り方も、出来れば一緒に見守っていただきたいなと思います。
それでは、今回はこのあたりで。
またお会いしましょう。
<了>