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現代アートとは、さよならと言ってあなたは椿を落とした(そしてもう戻らない)

アートが好きで、アートについてお喋りしたくなるときがあります。

※こう書くと、専門家じゃないのですが、とか、さして知識もない分際ですが、みたいに「すみません、ちゃんと分相応をわきまえてますので・・・・・・」みたいな一言を加えたくなるのですが、よく考えたらこれもおかしな話です。好きだから、ただお喋りしたいのです。

先日、ちょっと不思議なデジャヴュがありました。
少し遠出をした日のことです。
用事を済ませて、ついでにあちこち寄り道していると、古い神社の前を通り掛かりました。立ち寄ったのは只の気まぐれで、でも何だか不思議な雰囲気のあるところで。
その神社は、かつてお殿様のお屋敷の中に建立されたものらしく、境内の一部が庭園になっていました。苔むした石畳や太い幹の木々に囲まれているせいか、そこだけ時間が止まっているようなのです。

雨の降る日でした。
なぜか少し、懐かしい感じがしました。

境内を進むと、朽ちかけたベンチがありました。
あたり一面に散った、赤い椿。
思わず立ち止まります。
ここに、ついさっきまで、誰かが座っていた気がしました。
おそらくは、もう二度と戻ってくることのない誰かが。

圧倒的な、不在の気配がしました。

この光景を知っている、と思いました。
そうです! 私はこれを見たことがあります。
あれは数年前、瀬戸内海に浮かぶ直島を訪れたときのことでした。

直島は、元々は銅の精錬を主な産業として栄えた一方で、深刻な環境被害に見舞われたという歴史を持つ島です。その後、大企業ベネッセの参入により数多くの現代アート作品が設置され、現在は「アートの島」として多くの観光客で賑わっています。

美術館や屋外作品も数多くある中で、最も印象深かったのは「家プロジェクト」でした。島に点在していた空き家を一軒ずつアーティストが受け持ち、建物ごとアート作品にしてしまうという試みです。観光客はレクリエーションのように家を巡ってスタンプを押してもらい、ホクホクするというものです。

家ごとに全く展示の内容が異なるので、家プロジェクトを巡った人は各々「自分が1番気に入った家」を見つけるものなのですが、私にとってのそれは須田悦弘の 「碁会所」でした。
その名の通り、かつて島の人達が碁を打っていた場所を改装した家で、記憶が曖昧なのですが(そして曖昧なままにしておきたいのですが)、確か白い砂利が敷かれている敷地内の左右に、内装も外装も全く同じ建物が1棟ずつ建てられていたはずです。建物と言っても、それぞれが四畳半ほどの和室一間に過ぎません。2つの家はまるで一卵性双生児のようによく似ているのですが、たったひとつだけ違った点がありました。

一方の家の畳には、木で精巧に作られた椿の花が散らされており、もう一方の家には何もなかったのです。

そうです、あの時私は(自分でも驚くことに)少し泣いてしまったのでした。
ここで碁を打っていた人は、1人また1人と席を立ち、行ってしまった。立ち去るときには1輪ずつ、皆がそれぞれ椿の花を置いていったのです。だから、ここにある椿の数は、かつてここにいた人の数で、もう二度と戻らない人の数、不在の数でした。決して返らない時間を思って、私は泣いたのです。


もちろん、これは勝手な解釈です。
上のようなことは、どこにも書かれてはいなかったし、作者の須田悦弘さんが聞いたら驚かれるかもしれません。しかし「碁会所」を知ったことで、私の無意識は椿を不在のモチーフにしたのです。そして、それは数年の時を経て、あの神社の境内に置かれたベンチを見た瞬間に、蘇ったのでした。
私はこれからも、地に落ちた椿を見かけるたび、誰かの不在を感じるのでしょうか。

その意味で「碁会所」は非常に優れたアートであると思えるのです。
碁会所という作品に出会うまで、私にとって椿の花は美しい、けれどあくまで只の花でした。しかし、今は違います。椿は今や「不在」を感じさせる象徴となりました。「碁会所」は、須田悦弘 は、椿=不在、という回路を私の中に構築したのです。
1つの作品を作り出すことで、鑑賞者の内面にも、新しい「何か」を作り上げてしまう。これが、アートの力なのかもしれません。

椿の降り積もるベンチには、やはり誰も戻ってくることはありませんでした。雨音が強くなり、私はそこを立ち去ることにしました。私もまた、不在を形作る1人だったのです。

<了>











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