新陳代謝としてのアウトサイダー・アート①
※写真は、上村空が制作した名古屋駅周辺の街の様子です。
「人って、ご飯を食べて、排泄しますよね」
はい、そうですね。
「生き物だけじゃないですよね。全てのものは、入れて出してを繰り返して、循環させることで維持されてるはずですよね」
まあ、経済とかもそうですよね。インフレとデフレを繰り返すのを循環というのであれば。
「そう、それが真理なはずなんです。だから、アートの世界だけじゃないですか」
え、何がですか。
「足し算だけがされているのは。コンセプトがどんどん足されていって、引き算がされていないと思うんです」
あれは春の夜のことで、私はいつものカフェでいつものラテを飲んでいました。いつものテーブルの正面に座ったのは、時たま夜のお茶に付き合ってもらっている友人で、私達は大抵アートと文学と歴史について話しながら、コーヒーに入れられた角砂糖のようにゆるゆると時間を溶かして過ごします。
その時の友人の言葉に、確かにね、と私は頷きました。
美術館やギャラリーに限って言えば、並ぶ作品が日に日に概念的になっているのを感じます。世の中の(過去か現在か未来かの)何かしらを切り取ったものであることが前提条件として暗黙のうちに提示されており、それを読み取ることができるか、作品を前にした鑑賞者は知識や感性を試す試験に否応なしに引きずり出されるのです。
あと、キュレーターの解説文が普通に難しくて泣けます。
美術館やギャラリーで見ることの出来る作品たちは、なんだかどんどん難しくなっているように感じます。ただ一枚の絵を見るにしても、そこに込められた意味は何なのかを、一生懸命考えなくてはいけないようなものばかりなのです。しかも「世の中はこうだ」「ああだ」「これからこうなるんだ」みたいな、難しいことばかり考えて作られているようです。だから作品を見る時は、それがきちんと分かる立派な人なのかを試されているように感じます。
四角で囲った2つの文章は、どちらも内容は同じです。
でも、前の文章は明らかに読みづらくないでしょうか。無駄に一文が長すぎるし、いきなり比喩表現(試験だかなんだか)をぶち込んでくるあたり、どうしましたか変態ですかって感じです。
でも、こんな文章をアート界のあちこちで見かけます。哲学的にあるいは詩的に表現しようと頑張った結果、無駄な難解さを生んでいる気がします。
(ちなみに、どちらの文章も引用ではなく、私が例として書いたものです)
作品に込められた意味(コンセプト)が、際限なく積まれていくこと。
それに伴って、鑑賞者に求められる教養や読解力のハードルが高くなっていくこと。
この2つを「現代アート」の現状とするならば、確かにそこには摂取(足し算)しかありません。排泄(引き算)が行われないまま、ぷくぷくと膨らんでいくのがアートのあり方なのでしょうか?
ゆるりとした疑問を抱えた私ですが、先日とある企画展に行ったことで、その謎が解けたように思ったのでした。
→明日はロケなので今日はこのあたりにしておきます!ゆるゆる書いて行く予定です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?