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ピアノのこと つづき

T先生率いる校内トラベリン合唱団「歌のメドレー」がどうやって終わったか、実は全く覚えていない。2年生が終了したと同時に自然に消滅したような気がする。3年生に進級して担任が変わった後、校内でT先生に会った覚えがないから、ひょっとしたら先生は別の学校に移られたのかも知れない。
T先生はおいくつだったのだろう、と今更考える。当時は「大人」だとしか思っていなかったが、風貌を思い出すと、まだ20代中盤か後半だったようにも思える。少なくとも、自分のクラスの生徒全員を合唱団として校内を引き連れて回りコンサートを開く、なんて奇妙な発想はベテラン教師のものではないだろう。だとすれば、俺と20歳+α程度の年齢差しかなく、今はまだ80代でご存命かもしれない。もしご存命なら、是非、「歌のメドレー」の話をしたい。俺は今でも仕事で「伴奏」やってます、と話してみたい。先生はどんな顔をされるだろうか。

なんにせよ、ハノンだのツェルニーだのの窮屈なピアノの練習から解放されてひたすらテレビマンガの主題歌をコピーしていた事は「歌のメドレーツアー」に大いに役立ったし、それは満足感につながった。しかし、3年生になってツアーが無くなると、マンガ主題歌のコピーも面倒になった。友達とマンガを読んだり表を転げまわって遊んでいるうちに時間が過ぎた。掌は鉄棒遊びで豆だらけだった。

両親はもうとっくに俺にピアノを習わせることは諦め、2歳年下の妹に期待を寄せていた。俺がピアノ練習をやめた頃から母は妹にピアノのレッスンを始めていて、俺と違って気性の激しい妹に対しては相当厳しく指導した。妹はレッスン中にほぼ100%に泣き喚いたし、母も怒鳴りまくった。手をあげることもしばしば。ああうるさい、やめてくれ!と思っているうちに、妹はどんどん上達していった。運動神経の良かった妹はとにかく指がよく動き、速いパッセージは間違いなく俺より数段綺麗に弾きこなすようになった。
正直言ってナメていた。なんだよこいつ、こんなにうまくなっちゃうのかよ、ダメだ、まずい、兄ちゃんとしてのプライドが・・・!

そして4年生になった時、遂に俺は母に言ってしまった。
「もう一回ピアノ、習いたい。」
思えば、これは母の策略にハマった瞬間だったのかもしれない。
母は優しく笑って「ちゃんと練習する?」
「する」「ほんとに?」「する」

こうして、俺と妹は、毎週水曜日の午後、バスに乗ってT先生というピアノの先生のお宅まで通い、レッスンを受けることになった。片道約30分の道のりを子供だけでバスに乗る体験は充分に刺激的だったし、その先生のお宅のすぐ近くに偶然祖母の姉が住んでいて、レッスンの後ちょっと顔を出すとお菓子やお小遣いがもらえたのも嬉しかった。T先生は少しお年を召した上品な女の先生で、いつもきれいな服を着ていい匂いがした。妹がレッスンを受けている間、同じ部屋のソファに座って、置いてあるマンガ雑誌を読んだ。当時、ピアノを習うのは圧倒的に女の子が多かったから(今もそうかな)、雑誌は「マーガレット」か「少女フレンド」だったが十分に楽しかった。高校時代、大島弓子や竹宮恵子、萩尾望都などにハマる基礎はここで培われたと思う。まあ、この話はまた別の機会に。

最初の半年くらいはかなり真面目に練習もしたし、先生にも褒められた。
しかし、単に「兄としての権威を保つために」だけピアノを習う事は、どんどん退屈なルーティンになって行った。そもそも3年間近く基礎練習を完全にサボってしまった事はあまりにも大きかった。一生懸命練習しても(あるいは一生懸命練習したつもり、でも)、妹のような綺麗なフレージングが全く出来なかったのだ。母は「裕彦は指がもつれるねえ、ダメだねえ」と容赦なく指摘した。
なんだ、もう追いつけないんじゃん!モチベーション、ダダ下がり。
かくして、レッスンに行く前10分弱くらいちょこっとだけ練習して行き、先生にため息をつかれる、というどうどう巡りに突入。バスに乗るのもすっかり飽き飽き。あー、やめたい!つまんない!
でもさすがに、あれだけはっきり「やる」と言ってしまった手前言い出せず。結局、俺とピアノとは切るに切れない「腐れ縁」の仲、になってしまった。

そんな中、変化が起きた。再び「ピアノを弾く自分」が必要とされる状況がやって来たのだ。その話をしてみる。

現在のシステムは分からないが、当時は4年生になると音楽や図工の授業は専科の先生が受け持った。自分の父親の職業がまさに音楽専科の先生、だったので、4年生最初の音楽の授業は妙な気分だった。どんな先生なんだろう。お父さんとはどう違うんだろう。生まれて初めて「専科の先生」の授業を受けるみんなも同じように緊張していた。

チャイムが鳴って教壇に現れたその先生は、眼鏡をかけてちょっと神経質そうな細身で、シワ一つない背広を着ていた。凄く姿勢がいい。年は40歳くらい?お父さんよりずいぶんカッコいい、と俺は思った。
でもちょっと怖そうだな。
お決まりの、起立!気を付け!礼!着席!のあと、先生はゆっくり口を開き「今日からきみたちに音楽を教えます。SXXX MXXXです。」
良く響く声。
「みんな、先生の授業を受ける時は、机に座る姿勢をもっときちんとしなさい。だらしないのが一番いけない。話を聞くときは、必ず先生の顔を見なさい。」
うわ、おっかないぞ、この先生。どうしよう。
多分、クラス中がそう思った。
だが、音楽を教えている時の先生はにこやかで、時には冗談も言い、むしろ優しかった。特に、コーラスの授業は愉しかった。
俺も含めみんな、いっぺんにS先生が好きになった。

ある日、授業の終わりにS先生が言った。
「先生はこれから、この学校で、男子だけの合唱団を作ろうと思うんだ。やってみたいと思う人は、今日の放課後、音楽室に来てください。」
男子だけの合唱団が外国にある事は知っていた。ウィーン少年合唱団。
母も大好きだった。それにしても、ほんとに男子だけで歌うの?
放課後、何人かの友達と音楽室に行ってみた。
他のクラスからも、上学年からも男子が集まってきた。意外なほどの人数。きっと、「男子だけ」というのが、なんとなくみんなのプライドをくすぐっていたのだと思う。
先生のピアノに合わせて何曲か歌を歌った。何を歌ったかは覚えていないが、男子だけで歌うのってなんかカッコいい、と思った。
先生は満足気に、
「よろしい、それではこれから月曜日、水曜日、金曜日の放課後、音楽室で合唱団の練習を始めます。なるべく休まずに参加してください。」
こうして、志村第六小学校少年合唱団、が誕生した。

つづく


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