見出し画像

「池袋モンパルナスの唄」オーディオ制作記


今日(2021年10月11日)、桜井浩子さんがTwitterで「怪獣のあけぼの」についてのTLをされていて、「池袋モンパルナス」の話を久々に思い出して懐かしくなりPCのHDを探ると、掲題のような文章が出て来た。
かなり丁寧に書かれた文章だが、用途が全く思い出せない。当時のブログだろうか・・・ひよっとしたら、オペラ歌手の高野二郎くんとのユニット「JURAN JURAN」のライブの時に配布したものかもしれない。
とりあえず、全文を掲載してみる。

2005年 9月中旬 某日

実相寺昭雄監督よりお電話をいただく。ちょっと頼みたいことがあるので、
後日「ウルトラマンマックス」の撮影見学に来がてら、聞いてほしい、とのこと。「いま、高山良策がらみの番組を作っていてね。その関係で」とおっしゃられたが、具体的な内容についてはその時点ではこれ以上触れられず。

9月28日

祖師ヶ谷大蔵の円谷プロダクション旧社屋内怪獣倉庫にて、「ウルトラマンマックス」の「狙われない街」撮影。
監督にお会いするなり「先に用事を済ませちゃおう。実はこれなんだがね」と、一枚の譜面を手渡される。歌詞がルビとしてふってある、シンプルな一段譜で、全六段の譜面。
タイトルは「池袋モンパルナスの唄」。
池袋モンパルナス?なんのことか全く分からず。
即座に頭に浮かんだのは、多分、池袋にあった飲み屋かなんかなのだろう、という単純な推測。例えば、そこに高山良策さんが入り浸っていた。で、その店を歌った古い曲があり、それをアレンジするって事かな・・・
などと考えを先走らせていると、監督からとんでもない一言が。
「この曲をね、歌って欲しいんだ」
「え・・・・歌う、んですか!?」
「そう、歌う」
あわてて譜面をよく見る。拍子記号はないが、ワルツ。キーはDマイナー。
見るからに単純な曲だし、まあ、歌えない、という事はないだろう。それにしても、だ。
東京芸大のオペラ科で教鞭をとられていた監督なら、一流の歌手をいくらでもご存知のはず。それがなぜ、ただの「ロック・キーボディスト 兼 作編曲家」にすぎない僕に、ワザワザ「歌」の依頼を?だいたい、監督、僕の歌聞いたことないじゃないですか、はっきり言って相当ヘタですよ、歌!
危うく暴走状態に陥りそうな思考を、監督の言葉があっさり受け止めた。
「酔っ払いが歌ってるみたいに歌ってほしい。だからうまくないほうがいいんだ。でもあんまりデタラメでも困る。収拾がつかなくなるからね。あなたにまず核になる部分を歌ってもらって、あとでいろいろな人間の歌を重ねたい。」
なんという明快な回答。
要するに、必要なのは、「正しい音程やリズムを理解しつつも、崩れた歌」。そういう歌を歌うには、最低限「歌う人間がドシロウトでは困る」。
かと言って、監督とおつきあいのあるきちんとしたオペラ歌手のかたに、まさか「酔っ払いみたいにヘロヘロ歌ってくれ」とは頼めない。
となれば、いつも飲みの席でクダをまいている、酒好きの怪獣オタミュージシャンに最適の仕事。見事なまでに「福田の使い方」を心得たオーダーである。
「わかりました、やってみます」と答えながら、ゆっくりめのテンポで、頭の中でメロディラインをたどってみる。
悲しげなメロディ。でも、確かに、酔っ払いががなりたてるように歌うイメージは素直に浮かんだ。
「ア・カペラがいいですか?」
「バックに楽器があってもいい。それは任せるよ。」
「納期はいつごろでしょう」
「最終的には11月ごろだね。ただ今月中に一度、試し録りしたものが聞きたい」
ちょうど、浜田省吾ツアーの真っ最中だったが、それなら全くムリのないスケジュールだ。
「了解です。デモを作ったら、お送りします」
こうして「打ち合わせ」はあっという間に終了。

そうこうするうち「狙われない街」に出演される寺田農さんにお会いする。
監督が「今度、モンパルナスの歌を作ってくれる福田さん」と僕を紹介してくださった。
寺田さんは「おお、モンパルナスの歌をね!そうですか!」と、一種感無量な表情をされたのだが、その時点でも僕は、寺田農さんと「池袋モンパルナス」の関係はもちろん、そもそも「池袋モンパルナス」が何なのか、全く分からずにいた。しかし詳しい説明をお願いするには、その日の監督と寺田さんが忙しすぎた事は言うまでもない。
監督のおっしゃられた「高山良策さんがらみの番組」というのが、インターネット配信される全12回のドキュメンタリー番組「怪獣のあけぼの」であり、実相寺監督が演出される第10回、第11回放送分の「池袋モンパルナス」で、この「酔っ払いの歌うモンパルナスの歌」が使用されるのだ、という事を知ったのも、後日のことである。

9月29日

ネットで「池袋モンパルナス」を検索。
それが決して「飲み屋」などではなく、昭和初期の池袋を中心に存在した、
世界でも稀に見るほど大規模な「芸術家たちの解放区」だった事を初めて知る。
もともと板橋区の生まれで、学生時代、遊びに行く「盛り場」といえば主に池袋だった僕は、あの雑然として、お世辞にも「文化的」とは言い難い雰囲気の横溢していた街にそんなエリアがあったことに単純に驚き、興奮した。なにより、嬉しかった。調べていくうちに、寺田農さんのお父上がモンパルナスの画家であったことも分かり、ああ、あの時の寺田さんの感無量の表情はそういうことだったのか、とも理解した。
あらためて、「池袋モンパルナスの唄」のメロディを声に出して歌ってみる。若い情熱を肴に安酒をくらいながら芸術を語り合っていたであろう池袋モンパルナスの住人たちには、なんともふさわしい切ないメロディである。
しかし、作詞者小熊秀雄の、「彼女ために神経をつかえ」という、
戦前の日本で歌われる楽曲としては間違いなく相当にユニークで「軟弱」だったであろう「現代的」な感性が、曲全体になんとも言えないユーモアと精神的な余裕を与えている。
一言で言えば、品がある。どんなに泥酔してがなりまくっても、おそらく失われない品格、が、歌詞にあるのだ。
決して、なにかを壊せ、とも、作れ、とも主張しないこの歌詞の独特の柔らかさによって、モンパルナスの住人達は日々、救われていたのではないだろうか。

10月初旬 某日

ツアーの合間に自宅スタジオにてデモ制作。
伴奏楽器にはアコーディオンを使用。「モンパルナス」→「フランス下町」→「バンドネオン」→「アコーディオン」・・という、単純な発想である。しかし、街中で演奏されるワルツ、を奏でるのは、ピアノよりギターより、やはりアコーディオンがふさわしい。あくまでデモなので、簡便性も考え、使うのはシンセサイザーのアコーディオン音色。楽曲としてのプリミティブさを損なわないよう、コードづけは極力シンプルに。テンポは「酔っ払いが徒党を組んで気持ちよく歌えるテンポ」をおおよそで決定し、演奏、録音。メトロノーム等は使用せず、テンポの揺れも「よし」とすることに。
イントロには、譜面にある4小節のフレーズをそのまま使用した。
伴奏用オケ完成後、今度は歌う人間の「酩酊度」(要するに、酔っ払いの度合い)を設定。
焼酎一杯程度の軽い酔いの状態で比較的冷静に歌っているバージョンからはじまり、焼酎二杯、三杯・・と「酩酊度」を上げていく。本当に飲みながら録音しようか、とも思ったが、コンピュータの操作が出来なくなるのはマズいので、あくまで「バーチャルな酔っ払い」として歌う。なかなか楽しい。
一応、焼酎5合の酩酊、を上限として、5~6バージョンを制作。
最終的にすべてのボーカルバージョンを重ね、若い芸術家たちが、声を張り上げ、上機嫌で歌っている状態をシミュレートした「酔いどれコーラスバージョン」が完成。デモとしては十分な出来、と判断したので、作ったバージョン全てをCDに焼き、実相寺監督の事務所コダイに送る。
・・・・しかしその後、なんの連絡も来ないまま10月は過ぎていった。

11月初旬 某日

漸くコダイのプロデューサー鈴木氏から連絡があり、「ウルトラマンマックス」の撮影以降体調が優れない実相寺監督が、「池袋モンパルナス」の監督を降板されたとのこと。驚いたが、あくまでも大事をとってのことだと聞き、少し安心する。
「で、実相寺監督は、デモは聴かれたんですか?」
「ええ、聴かれて、これでいこう、ということになりました。ありがとうございました」
「え、でも、あれ、あくまで、デモですけど」(ダジャレではない)
「あのラフな感じがいい、という事でして。実相寺監督から演出を引き継がれた寺田農さんも、あれがいい、とおっしゃっています」
楽曲を使用する側が「これでOK」という判断を下したのなら、僕としてはそれ以上なにも言うことはない。こうして、僕一人が酩酊度の違う酔っ払いになりすまして多重録音したデモバージョンが、そのまま番組中で使用されることになった。

11月16日

その後、実相寺監督は体調を戻され、「ウルトラマンマックス」用の劇中音楽を新録するためアバコスタジオにいらっしゃると伺い、お邪魔した。久々にお会いした監督は確かに、怪獣倉庫での撮影の時よりお元気そうである。
開口一番、気になっていた事を伺う。
「監督、モンパルナスの唄、ほんとにあれでいいんですか」
「うん、いい。かえってああいうほうがいいんだよ」
「でも、デモですよ」(ダジャレではない)
「ちゃんと録ると、ちゃんとしちゃってあのラフな感じがなくなるからね。
でも悪かったねえ、僕が監督をする予定だったから福田さんに頼んだんだよ。僕はただの出演者になっちゃった」
:僕が監督をする予定だったから福田さんに頼んだ:!
30年来の実相寺ファンの僕にとっては、あまりにもありがたいお言葉、であった。

11月下旬 某日

コダイのディレクター玉木さんから連絡があり、玉木さんが演出する「池袋モンパルナス」後編で、「池袋モンパルナスの唄」のインストルメンタルバージョンが使いたい旨を伺う。
さっそく、ピアノソロバージョンを制作。基本的にはシンプルな雰囲気を守りつつ、コーラスバージョンでのアコーディオン伴奏よりはコード付けを細分化。歌詞がないと切なさは倍加するが、非常に「アレンジ映え」のするメロディである事があらためてわかる。今回もメトロノーム等は一切使わずに、テンポの比較的速いバージョン、遅いバージョンなど、数バージョンを録音。CDに焼き、提出。

12月17日

「池袋モンパルナス」前後編のMA。大音量で改めて「酔いどれコーラスバージョン」を聞く。はっきり言って相当恥ずかしい。寺田農さん、円谷プロの方々、コダイの方々、みなさん褒めてくださるのでよけい恥ずかしい。とにもかくにも、MAは無事終了。

2006年 1月

15日、「怪獣のあけぼの」の打ち上げの席で、アトリエ村資料室の本田晴彦氏とお会いする。番組中で使用した「池袋モンパルナスの唄」を、資料としてCDに収めたものが欲しい旨を伺う。後日、ピアノ、木管アンサンブル、バイオリン チェロといった室内楽的な編成でこの楽曲をアレンジした場合どんな雰囲気になるだろうか、という個人的な興味から、オリジナルアレンジバージョンも制作。キーDmの前半はピアノとオーボエのデュオ、ワンコーラス終了して短三度上Fmに転調後、チェロ、バインオリン2、フルート2、クラリネットがアンサンブルに加わる。
全てシンセサイザーによる多重録音だが、有機的な雰囲気を出すために、メトロノームは使用せず、演奏データに対する「クォンタイズ」(強制的にタイミングを合わせる作業)も行わなかった。最終的に、「怪獣のあけぼの」用に制作したピアノソロバージョン2種、酔いどれコーラスバージョン、そしてこのオリジナルアレンジバージョンを加えた計4バージョンをCDを収録、アトリエ村資料室にお送りした。

「池袋モンパルナスの唄」オーディオ制作記 了


◆「池袋モンパルナスの唄」をめぐる いくつもの憶測とひとつの妄想◆

                        
1、作曲者に関する憶測

僕が資料としていただいた譜面には「松井八朗 作曲」とある。
だが、ネットで検索する限り「松井八朗」という作曲家は存在しない。
しかし、「松井八“郎”」という高名な作曲家は存在する。
ということは、譜面に表記されている「松井八朗」の「朗」は、おそらく「郎」の誤植であろう。つまり「松井八朗」=「松井八郎」。そう考えるのが自然だ。
しかし、いったん、「池袋モンパルナスの唄の作曲者である松井八郎」として氏のプロフィールを調べ始めると、こ果たしてこの考えは正しいのか、という疑問がわいてくる。
松井八郎氏は、戦後間もない頃からジャズピアニストとして活躍し、その後数多くの歌手に楽曲を提供、また、映画音楽も数多く手がけている多作型の俊才である。
しかし、少なくともネット上で僕が調べた範囲内では、氏が「池袋モンパルナスの唄」を作曲した、という記述を発見することは出来ない。
それは、この「池袋モンパルナスの唄」という小曲が、松井八郎氏の作曲キャリアの中に入れるに値しないほど「小さな仕事」だからなのか。それとも、単にこの楽曲の存在自体が「池袋モンパルナス」の実質的な変質、消滅とともに忘れ去られており、それとシンクロして、松井八郎氏のキャリアからも自然消滅しているから、なのか。
この楽曲に関するなんらかの記述が発見されるか、もしくは「記述がない理由」に関するなんらかの記述が発見されるかしない限り、すべては憶測の域を出ない。
であるとすれば、今大前提とした仮説「松井八朗」=「松井八郎」をくつがえし、松井八郎と松井八朗は全くの別人で、この楽曲は、無名の「松井八朗」という作曲家の作品なのかもしれない、と言う、まったく別の憶測も可能になる。むしろそう考えたほうがすっきりもする。だから「松井八“郎”作品」としての一切の記録が残っていないのだ、と納得もいく。

それにしても、だ。作詞者である小熊秀雄の厳然たる存在感に対して、なぜ作曲者の存在がこうも「不明瞭」なのだろうか。
少なくとも、この楽曲は、歌詞に比して、お話にならぬほど低劣なメロディの楽曲、では全くない。むしろ、歌詞とメロディのバランスの非常によく取れている佳曲である。ならば、「作曲者」がここまで「幽霊じみている」のはなぜなのか?この疑問に関して、僕はまたひとつ、別の憶測を試みる。

2、楽曲成立に関する憶測

僕の手元にある譜面のオタマジャクシに「ルビ」としてふってある小熊秀雄の「歌詞」は、小熊秀雄のオリジナルの詩と異なっている。
オリジナルの詩の後半はこうだ。

「彼女のために神経を使え あまり太くもなく 細くもない ありあわせの神経を」

ところが、譜面上の歌詞は以下のようになっている。

「彼女のために神経を使え 太くもなく 細くもなく ありあわせの神経を」

修飾語「あまり」が抜け、「細くもない」の「い」が、「く」に変化している。
まず「あまり」、の欠落について考えてみる。
あくまで「たまに作詞もする作曲家としての個人的意見」だが、詩中の表現として、この「あまり」という修飾はかなり重要である。
「あまり太くもなく細くもないありあわせの・・」という表現がもたらす柔らかさ、優しさと、「太くもなく細くもなくありあわせの・・・」という断定的なニュアンスの間には、大きな隔たりがある。
「詩人」が、そうやすやすと許容できる類の隔たりではない、僕はと思う。
少なくとも、小熊秀雄が自分の書いたこの詩に曲をつけてくれ、と作曲者に依頼した時(そんな状況があった、とここでは仮定する)この言葉はハマリが悪ければ削っていいから、と言えるような「捨てコトバ」では全くない、と思える。
もちろん、作曲者は作曲者で、作詞者が何も言わずとも「出来る限り原型の歌詞を変えないよう最大限の努力をする」のが普通である。実際、メロディの流れを変えずに、この楽曲に「あまり」という三文字を挿入する方法は、そう難しくない。ところが、実際、「あまり」は消えている。なぜだろう。

次に、「ない」→「なく」への変化。
メロディに乗せて歌ってみるとよく分かるが、あきらかに「なく」のほうが歌いやすい。
では、その方が歌いやすいから、という理由で、小熊秀雄自身が、「ほそくもない」を「ほそくもなく」に変更したのだろうか?
彼自身がこの変更を行ったのだとしたら、少なくとも彼は、自分の詩より、作曲家の作ったメロディを尊重した、ということになる。
実際、例えば小熊秀雄が「歌ってみたらその部分が歌いにくい」事実に気がついたとして、
自分の詩を変更するのではなく、作曲者に対して「い」音の部分にはロングトーンをはめないでくれ、と、メロディの作り直しを要請することは可能だったはずだ。しかし、実際、ロングトーンの位置で「い」は「く」に変わっている。つまり、彼は「折れた」のだ。なぜだ?

この「詩」の二箇所の変化について、最もシンプルな憶測はこうだ。
要するに、小熊秀雄は自作の詩に関して鷹揚だったんじゃないか?
所詮「読まれる」詩と「歌われる」詩は違う。だから、ある意味、どうなってもいい、作曲家にまかせよう、と思っていたんじゃないのか?
そして、それはそれで、一種の達観ではないか?

しかし、クリエーターのはしくれ、として、僕は、そう「考えたくない」。
単に、小熊秀雄ほどの人物は、自作に対してずっと真摯であったはずだ、と信じたいのだ。無論これは、身勝手は「希望」である。

こうして、さまざまな邪推に近い推測を繰り返した末、
僕がたどり着いた(または勝手に描いた)「ストーリー」はこうだ。

3、そして妄想

ある時、「池袋モンパルナス」のまさに中心人物であり、名付け親でもある小熊秀雄は、「みんなで歌うため」の「うた」を書いてくる。
「池袋モンパルナスの唄」。おお、いいじゃないか。どんな歌だ?いや、まだメロディはないんだ。なんだそうか、それじゃこんなのはどうだ。誰ともなく適当な節をつけて歌い出す。
それは無名の画家だったかもしれないし、役者の卵だったかもしれない。
音楽を学ぶ学生だったかもしれない。なんだ、そんなのじゃだめだ、こうがいい、いや違う。ああだ、こうだ、とみなで歌っているうちに、なんとなくカタチが出来てくる。
おお、いいぞ、飲みながら歌おう!もちろん誰も譜面など書かない。
昨日歌われていたメロディと、今日歌われているメロディはすこし違う。
明日はまたさらに違う。あれ、ここはそんな節だったか?まあいいじゃないか。そんな調子で、ただ、なんとなく歌い継がれていく。酔うたびに、みんなが歌う。
ある時、小熊秀雄は、自分の書いた歌詞が変わっているのに気づく。
「おいおい、そこは、細くもなくー、じゃなくて、細くもないー、だぞ」
「なに、ないー、だ?そんなものは歌いにくくってかなわん」
酔って真っ赤な目を精一杯見ひらいて抗議する住人たち。
苦笑いする小熊秀雄。「作者の意図もなにもないな、きみたち」
「何をぶつぶつ言ってる。さあ、歌うぞ」「そうだ、責任者、歌え!」
実際に歌ってみる小熊秀雄。歌い終わってうなずく。
「確かにそうだ、細くもない、はいかんね。細くもなく、だな、断然。」
「そうだろう!」「こうして民衆によって磨かれていくのが本当の芸術なのだよ、な、小熊!!」
それが「本当の芸術」なのかどうか、無論そんなことは分からない。
しかし少なくとも、「この唄の生まれ育ち方」としては正しい。限りなく正しい。小熊秀雄はそう思った。

こんな具合に、あくまで住人たちの間で自然発生、発展していったメロディを、編集、採譜したのが若き日の松井八郎、または松井八朗である。それは、小熊秀雄の依頼だった。松井は小熊秀雄に請われるまま、池袋モンパルナスのそこかしこで聞こえるこの歌を何パターンか採譜した。
それぞれに微妙な差異があった。松井はそれを整理し、最も「整合性のある」メロディへと収斂させていった。この作業の段階で、歌詞からは「あまり」の三文字が自然消滅していた。無論、小熊秀雄はそれについては何も言及しなかった。

「良い唄ですね、小熊先生」
「そうですか。面倒な事をお願いして申し訳なかった。」
「いえとんでもない。この唄にはなんというか・・音楽家が一人では作りきれないようなエネルギィを感じます。たいへん勉強になりました」
「・・・妙な事を聞きますが、きみは、これが歌い継がれるべき歌だと思いますか」
「ええ。誰もがそう思うと・・・実際、もうすでに、十分に歌い継がれてきているではありませんか。これからもそれは変わりませんよ」」
「そうですね」――――「ぼくもそう信じたい」
「・・・信じたい・・とは?」
「ぼくはね、松井さん、この唄は消えてしまうような気がするんですよ。
だから、あなたに採譜してもらった。この唄が確かに存在していたことを証明するために」
「・・・・・」
「松井さん、この曲を、あなたの曲として、後世に残してください」
「小熊先生、何をおっしゃるんですか!これはアトリエ村のみなさんの・・・!」
「いつか消える。ここはそういう場なのです。そして僕も消えます」
「小熊先生」
「松井さん、あなたは生き延びてください」

やがて迎えた小熊秀雄の死、そして、太平洋戦争。
「池袋モンパルナス」の変質と衰退とともに、この唄を歌う者はいなくなった。個人「小熊秀雄」の名は、その詩作とともに残り、若きモンパルナスの住人たちによって歌い継がれたメロディは忘れ去られた。
「採譜者」松井八郎、または松井八朗は、この唄をついに「自らの作」とする事を潔しとせず、終戦後の「日本の繁栄」を見届けたのち、他界した。

以上が、「池袋モンパルナスの唄」が僕にもたらした妄想、である。


了                    2006年2月1日   

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?