さよならうさぎをつかまえて 第一羽と最終羽

2003年に、浜田省吾公式HPでリレー式連載された「さよならうさぎをつかまえて」の第一羽(話)と最終羽です。第一羽を福田が書き、第二羽を浜田さんが書き・・・様々なクリエイター、音楽関係者の元を回るうちにお話しのスケールは巨大化、かつファンタジックなものへと変貌し、最終羽の前の回は小川糸さんが書きました。そのラストは、主人公・真由子がウサギのカタチになった配偶者「新ちゃん」を産む、という衝撃的なもので、福田はそのインパクトに圧倒されつつ、それまでこの作品に携わった方々が張ったすべての伏線を回収してこの世界そのものを終わらせました。
今更のように全話続けて読んでみたいのですが、福田の手元には第一羽とこの最終羽しかありません。展開部が欠落した小説、というのも面白いかな、と思い、掲載してみます。

第一羽

「で、どうするの、その小学校の時のお友達には招待状出すの?」
真由子の声で我に返った。
「ねえ、新ちゃん、ちょっとしっかりしてよね、自分らの結婚パーティの準備くらい自分達でやろうって言ったの、新ちゃんだよ」
「あ、ああ」僕は慌ててうなずいて見せた。「うん、だから・・・」
「だから・・・?」真由子の真ん丸い目が、それ以上丸くなれない状態で僕を睨む。
「えっと、一応出しとこう。うん、そうして」
「もう!」真由子が大げさな溜息をついてIMACのキーボードを打ち始めたのを確認して、僕はオープンカフェの人ごみに目をやった。
なんだかユーウツだぁ?お前、それ、マリッジブルーじゃねーの、結婚前だからプレマリッジブルーか(笑)、なんにしたって、普通そういうのは女の方がなるんだぜ、と今朝、同僚の原田に言われたばかりだ。いや、そんなんとは違うんだけどさ。ちょっと変な夢見ちゃって。
って言うか、ずっと同じ夢・・・・
ゆめ?お前、30にもなって夢占いとか信じる系?夢なんて、ありゃあ、脳ミソが寝てる間に情報整理する時のバグなんだぜ。原田の鼻の穴が膨らんだ。
「で、あとは?」
「え、なに?」あ、マズい。真由子の目が細くなってる。マジで怒っている証拠だ。
真由子はIMACの上ブタをバタンと閉めた。来たぞ。
「もういい。やる気ないんなら、アキと決める!」IMACとプラダのバッグとレシートを持って立ち上がった。すごい手際だ。「あとからやっぱりこの人も呼びたいとか言ったって、知らないよ!」
「ぷいっ」という表現以外絶対に当てはまらないイキオイで後ろを向くと、真由子は凄い速度でレジに向かって歩き出した。まいった。最近はいつもこんな調子だ。結婚前からこんなんじゃ、その先どうなるんだ。まあ、お前、間違いなくマユちゃんの尻に敷かれっぱなしだろうなあ、と中村も言ってた。
「まゆ・・・・」僕は小声で(絶対誰にも聞こえないくらいの小声で)真由子の背中に呼びかけながら、席を立った。レジの前では真由子がレシートを持って立っていた。
「今日は、新ちゃんの番!」はいはい。
僕はジャケットの内ポケットに手を伸ばした。あれ、これ、定期入れだ。
「どしたの?」
「いや・・・あれ?サイフ・・・」外ポケットにもない。
お客さま、と声がした。ミニスカートのワンピースが全然似合ってないウエィトレスが近づいてきた。これ、お忘れですよ。ああ、そうか、テーブルに。さっき、友達の連絡先書いた紙、出したんだ、ああそうだ。すみません、ありがとう。そのカッコ、全然似合わないけど。
「新ちゃん・・・」真由子が近づいてきた。「だいじょうぶ?」
「え、なにが?」
「ちょっと心配になってきた。律儀マン新ちゃんがおサイフ置きっぱにするなんて」
真由子は7センチ下から僕の目を見上げた。もう細くなってはいない。
「すっごく疲れてる?仕事そんなにたいへん?」
「だいじょぶだいじょぶ」僕はなんどもうなずいて、レジで1500円を払った。ブルーベリーゼリーは案外うまかったな。コーヒーはいまいち。
「ねえ、そんなに疲れてるんだったら、ほんとに新ちゃん、パーティの準備とかしなくていいよ、まだやらなきゃいけないこと、すごく多いし・・・私とアキでやるから」
「だいじょうぶだって」ごったがえしの舗道に出た。今年の5月は、暑い。
「ねえ、なんか変だよ新ちゃん」人波を掻き分けながら真由子が言った。
「なにが」
「結婚、めんどくさくなってない?」
どうしてそういう核心じみたセリフをすぱっと言うかな、きみは。
「なってない」僕は信号機を見上げた。はやく変われよ。
「だってめんどくさそうじゃん」
「違うって」ああ、やっと変わった。しかし、ほんとに凄い人出だ。まあ、金曜日の夕方だからな。
「じゃあ、どうしてめんどくさそうなの」
「なんにも、めんどくさくないって。気になるんだって」
「なにが」
「だからさあ、さっき言ったでしょ、夢だよ。夢」。
「夢?・・・ああ、ウサギの夢?」

僕は誰もいない街路に立っている。空は真っ青なのに、日の光は全く差していない。
僕は誰かの名前を呼びながら車道を歩いている。すごくよく知っている名前なのだが、
誰を呼んでいるのか、分からない。
続いているビルの色は鮮やかなのに、何色なのか分からない。
車が一台、猛スピードで走ってくる。車だと思っていたら、それは列車で、中には人がたくさん乗って、僕に手を振っている。手を振り返すと、列車は急ブレーキをかけて止まる。
すると、それは列車ではなく、飛行機だった。
タラップから、真っ白な何かが降りてきた。でかい。
白熊より白くてデカいウサギだ。
そいつは、ゆっくりと、でもあっという間に僕の目の前まで歩いてきて、こう言う。
「SHOGO TOWNがなくなるよ」
変な声。それにこいつ、ウサギのくせに目が真っ青だ。
そして僕は目が覚める。

「なんでその夢がそんなに気になるの」
「同じ夢、一週間も続けて見てたら気にもなるだろ。それに・・・・SHOGO TOWNって一体、なんなんだ?そんな街、聞いたことないし」
「アメリカとか、ブラジルとかの街じゃないの」
「なんでブラジル」
「わかんない」真由子は30分ぶりに笑った。「なんとなく」
僕もおかしくなって笑った。「じゃあ、仮にブラジルの街だとして、だ。なんで俺が、そのブラジルの街がなくなる、っていうのを毎日毎日聞かされるんだ?しかも、青目のデカいウサギから?」
「・・・予知夢。新ちゃん、超能力者だったりして・・・あ」
突然、真由子が立ち止まった。「・・でも、ほんとは違うんじゃないの」
「?」
「夢の中で、新ちゃん、だれかの名前、呼んでるんでしょ。それ、私の事呼んでるんじゃないんでしょ」
「え?」まあ確かに・・・でも、そうじゃないって。僕が呼んでるのはきみの名前かもしれないし、そうじゃないかもしれない。本当に「誰かわからない」だけ。
僕が説明の手順を考えた一瞬のスキをついて、
「それ、だれか、ほかの女の人の名前なんじゃないの?それが気になるんでしょ。そうなんでしょ」真由子の涙腺がみるみる膨れてきた。「やっぱり、結婚、ヤなんだ!だからそんな夢見るんだ。だから気になるんだ!」
「ちがうって!俺が気になってるのは」
その時、誰かが僕の肩を叩いた。
振り返った僕のすぐ目の前に、そいつはいた。
ウサギ。白熊より白くてでかい、青い目のウサギ。街のノイズが消えた。
「SHOGO TOWNがなくなるよ」
息が止まった。ウサギはそのまま、上空に跳ね上がった。
次の瞬間、脳ミソにものすごい衝撃が走った。

目の前に真由子の顔があった。
「新ちゃん!!新ちゃん、よかった!気がついた!」
真由子の目がものすごく腫れていた。
どうしたんだ?・・・・・ああ、こいつ、泣いたんだな。しかもすごく。
この前、結婚式の引き出物を決めるときにケンカになって大泣きした時の倍くらい、目が腫れてる。でもなんで?
あれ、俺、なにしてたんだっけ?
っていうか、いま俺、何してる?
「ど・・したの・・?まゆ・・・」ちょとくらくらした。
「よかったああ!!」真由子はまた泣き始めた。「生きてたあ!!」
僕は病院のベッドに寝ていた。
ビルの屋上にね、飾り付けがあったの、「不思議の国のアリスフェア」っていうのがあって。
街を見おろすみたいにウサギの人形が飾ってあって、それが落ちそうになってたのを直してたんだって・・・そしたらいきなり人形が壊れちゃって、頭の部分が落ちてきたのよ、新ちゃんの頭の上に。
柔らかい材質だったのが幸いしましたね。一応、精密検査はしたほうがいいと思いますけど、まあ、当たったのが発砲スチロールですから、心配はないでしょう。
医者が(白衣を着てるから多分医者だ)クールに言った。
しかしまあ、見事に直撃しましたね、あれで硬かったら即死でしたよ、はっはっは。
笑うなよ。

新ちゃん、やっぱ、予知夢だったのよ、この事故を予測してたんだ、きっと。
真由子は何度もうなずいた。
ごめんね、夢の中で、誰か別の女の人を呼んでるなんて、私の気にしすぎだよね。
ほんとにごめんね。明日の会場の下見、ムリしないでいいからね。
僕は別れぎわの真由子の表情を思い出しながら、ネットオークションで手に入れたゴツい
ワリに効きの悪いエアコンのスイッチを入れた。カラカラカラ、と音を立ててファンが動き出す。今日は機嫌がいいみたいだな。
結婚したら、このワンルームともお別れか。なんとなく寂しいな。今日は真由子、帰ったから、余計そんな気がするのかも。
真由子。
なんだかんだ言って、僕は彼女が好きだ。
やたら腹を立てたり、泣き出したりするが、笑い出すのもはやい。
僕みたいに、妙に神経質なくせに、ぼーっとしている、というか、基本優柔不断な男には、きっとものすごく合っているんだろう。尻にしかれるっていうのも、いいもんだぜ。第一、楽だ。結婚5年目の吉村がそんな事言ってたっけ。
「I LOVE YOU ベイベー♪」
僕はめちゃくちゃ適当なメロディを口ずさみながら、自分の部屋で唯一の「まっさら新品」PCでブラウザを立ち上げた。
「尻に敷いてよ、ベイベー♪」
でも、なんだろう、このひっかかる感じ。
そうだ、僕はあの時、確かにウサギを見た。
白熊より白くてでかいウサギ。青い目のウサギ。
その後、僕の頭の上に、「ウサギの頭」が落ちてきた。
あれはただの偶然なのか?
それとも、ほんとうに、予知夢なのか?
「俺ってサイキックなのかい、教えてよ、ベイベー♪」
だったらちょっとラッキーだぞ。競馬でもTOTOでも当てまくり。
もう仕事なんかする必要ないかもな。心霊スペシャルとかにも出ちゃって、ギャラ儲けて・・・ってバカか俺は。
「SHOGO TOWNがなくなるよ・・・・か」
ブラウザの「検索」にSHOGO TOWNと打ち込んでリターンキーを押した。

SHOGO TOWN
検索結果

JPOP>アーティスト>浜田省吾
Road&Skyによる公式ページ。最新情報、ライブ映像、試聴、チャット。

さすがADSL、速いぜ。
でも、なんだ、SHOGOって・・・浜田省吾のことか。
浜田省吾・・・・名前はよく聞くけど、歌は聞いたことがない。
あ、ウソだ、同期の西村、カラオケ行くと必ず歌ってるよな。あれ、なんていう曲だっけ。案外いい曲だったな。
SHOGO TOWNってのは、要するにファンサイトの名前か。ブラジルの街じゃなかった(笑)。
それがなくなる・・・・ファンサイトがなくなるって事?
でもなんでそんな事を、俺が夢に見るんだ?
時計を見た。11時50分。あいつの事だからまだ飲んでるな。
僕は携帯を取り出し、西村に電話をかけた。
「はいー」志村けんがばあさん役をやってる時の声。
「おお、西村か、俺だ俺」こいつ、営業の時の電話もこんな声で受けてるよな。
「片岡か。なんだよ、お前、俺、今、いいとこなんだからよ。デート中にかけてくんなよ」
物凄い音量で音楽が鳴っている。カラオケか。「じゃあ出んなよ(笑)。ところで、お前、SHOGO TOWNって知ってるか」
「なに?ゴタブン??」
「ショーゴタウン!!」
「ああ、SHOGO TOWN?SHOGO TOWNね?そりゃ知ってるけどさ。なんでお前がそんな事聞くの。おまえ、ショウゴ、好きだっけ」
「いや、別に」
「イキナリかよ(笑)。んで、なに、SHOGO TOWNがどうしたって」
「SHOGO TOWNがなくなる・・・って、お前、なんか情報ある?」
「はあ!?お前、何言ってんの?SHOGO TOWNがなくなるわけないじゃん。SHOGO TOWNつったら、公式のファンサイトだぜ。」
「いや、俺にも全然よくわからないんだけどさ、実は俺、SHOGO TOWNがなくなるっていう」夢を毎晩見てる、と言おうとしたとき、突然、電話口の音楽が途切れた。
「もしもし、もしもーし!」電波か。
電話の向こうで、妙なノイズが続いた。
「おーい、西村ああ」呼びかけたが返事がない。仕方ない、かけなおすか。
そう思った時だった。
「ガッコウにおいで」聞き覚えのある声・・・でもそれは西村の声ではなかった。

あのウサギの声だ。

「そこで会おうよ」
「に、にしむら?」
「SHOGO TOWN がなくなるよ」
これみよがしのプツッという音がして電話が切れた。二の腕に鳥肌が立っていた。エアコンのファンが妙なリズムパターンを刻んだ。
いきなり、据え置きの電話が鳴った。僕は慌てて受話器を取った。
「にしむら?」
「え?」女の声だった。「あの・・・・片岡さんのお宅でしょうか・・・?」
「はい?」真由子ではない。「あの、失礼ですが・・・」
「久しぶり・・・って言っても覚えてるかな・・・あの、大学時代にクラブの後輩だった桑島です」
「え、桑島・・・・・トモちゃん?」心臓が跳ねた。
「わあ、嬉しいな、覚えててもらえたんですね」この、コロコロと、弾むような声。
「いや、覚えてるもなにも・・・」桑島朋絵。
25歳の時の僕に手ひどい失恋を経験させ、僕に毎晩のようにヤケ酒を飲ませ、その様子を見かねた友人の高島が僕に真由子を紹介した。
つまり、真由子とつきあい始めるキッカケを作ったのは彼女だった。
「びっくりだな・・・なんでこの番号・・・?」
「クラブの同窓会のお知らせ、行ってません?それに名簿が載ってて・・・」
部屋のすみに、DMやら請求書を一緒くたに重ねた束があるのを思い出した。ここのところ忙しくてなんにも目を通していなかったが、そうかそんなものが来てたのか・・・・
「なんにしても、久しぶり!4年・・いや5年ぶり?」ちょっと声がかすれて、僕は咳払いをした。「あ、ごめん」
「ええと・・5年・・・かな。お元気でした?」
「うん・・・でもトモちゃん、ロスに行ったんだよね。」大学卒業と同時に、IT関連の「青年実業家」と結婚して、僕の前からマボロシのように消えた、3歳年下の「後輩」。
「あ、そうか、ひょっとして、これ、ロスから?」
「ううん、中北沢。」再び心臓が跳ねた。僕が使っている駅じゃないか。
「あのね、シン先輩」桑島朋絵はいきなり、すこし甘ったれた昔のままの口調で言った。「私、今年の初めに離婚したの。いま一人暮らし」
動悸がどんどんはやくなった。
「シン先輩は?」
一瞬言葉が出なくなった。離婚した?一人暮らし?
「シン先輩?」
「えっ、ああ、あいかわらず、一人モンだよ。給料、安くてさー、あはは」いや、俺はウソは言ってないぞ。一人モンで給料も安い。真実きわまりない。
「ねえシン先輩、明日会えないかな」
やばい、息が苦しくなってきた。会う?桑島朋絵と?
「学校で」
「ガ、ガッコウ・・・?」
ガッコウニ オイデ。ソコデ アオウヨ。
「うん・・・大学の正門の前はどうですか。昔ほら、よく待ち合わせしたじゃないですか。あの頃みたいに・・・・午後5時ごろはどうですか」
「い、いや、あしたは・・・ちょっと」明日はパーティ会場の下見がある。真由子。
「あ、やっぱりムリですよね。そうですよね・・・ごめんなさい、急にこんなこと」
「いっ、いや、そうじゃなくて」
なにが「そうじゃない」んだ。明日はパーティ会場の下見だろ、片岡新一!
・・・でも今この申し出を断ったら、二度と桑島朋絵には会えない。そんな気がした。
「ご、午後5時ね。正門前だね。」
そうだよ、真由子はムリしないでいいって言ってた。
「会えるんですね!わあ、うれしい!」
タイムスリップした感じ、というのはこういうのを言うのだろうか。でもタイムスリップした感じって、そんなに一般的な表現か?そういう感じに溺れちゃうのって、正しい?いや、正しいとか正しくないとか、そもそもそういう基準はどこにあるのかというと、どこにもないのであって・・・・
頭の中を、意味不明の思考が物凄い勢いで走り回った。
「じゃあ、楽しみにしてます」
「う、うん、楽しみにしてる」
「シン先輩」
「は、はい?」
「おやすみなさい」
3秒ほどして、電話が静かに切れた。受話器を置いたとき、ほんの少しだけ手が震えた。
「ガッコウにおいで。そこで会おうよ♪」
エアコンのノイズ。
僕はまた、デタラメな歌をくちずさんだ。

第一羽 了

最終羽

これはなんていうんだっけあたたかいやわらかい
これはなんていうんだっけあたたかいやわらかい

スージーは浮いていた。

どうして浮いてるのかどこに浮いてるのか分からないけど
あたし浮いている。

体はピクリとも動かない。
こんな夢を見たことがある。
そのうち体が落ち始める。ずっとずっと深いところへ。
スージーは絶叫する。
すると目が覚める。
朝の光の差しこむ窓が見える。

だからスージーは叫んだ。思い切り叫んだ。
息が続かなくなった。
深く息を吸い込んで、また叫んだ。
のどがカラカラになった。そのうち声が出なくなった。

それでもスージーは浮いていた。
誰か助けて。
本当に心からそう思ったのは生まれて初めて。
これは夢じゃないんだ。
夢じゃない。
あたしは石みたいにカチカチになって、どこか知らない場所に浮いている。
みんな、どこへ行ったの?
どうして誰もいないの?
どうして何も見えないの?

すこしずつすこしずつ、何かがスージーの脳に浸透した。
音でも光でもなく、ただ柔らかいゆらぎ。
スージーの脳が透き通っていく。
ああ、あたしは死ぬのね。
だってこんなにもなにもかも消えてしまった。
だからあたしも消える。
世界も消える。

消えたりなんかしないよ
消えたりなんかしないよ

声が聞こえた。

誰かいるの?
誰がいるの?

光が瞬き、スージーの網膜に濃い痕跡を残して消えた。
その痕跡の向こうに、ちいさな影が現われた。
川に投げ捨てられた縫いぐるみのように漂う影。
カルロスだ。

オーゴタウン
オーゴタウン

カルロスは繰り返した。
それがカルロスの、
たったひとつだけ言える言葉。

カルロス
かわいそうに
まだ赤ちゃんなのに
パパもママもいない
パパもママも

ママ・・・・・

どのくらいそうしていたのだろう。
気がつくと、腕の中の「それ」は、真由子の胸に顔をうずめて
静かな寝息をたてていた。
長い耳は真由子の胸の膨らみにあたって折れ曲がっている。
真っ白な産毛に覆われた小さな背中がゆっくりと上下する。

シンちゃん

真由子は「それ」の小さな背中に右の掌を置いた。

わたしの大切なシンちゃん

掌から伝わる体温。
ああ、なんてあったかいんだろう・・・・・
しかしそのとたん、真由子はぶるっと震えた。
寒い
ここはすごく寒い
真っ白な息が滑り出す。
次第に、理性と呼ぶべきものが真由子の脳に戻りつつあった。
なぜこんなに寒いの ここは病院なのに
慌てて診察着の胸元をあわせ、
真由子は腕の中の「それ」をぎゅっと抱きしめた。

だめ、このままじゃこの子が凍えちゃう・・・

初めて「それ」を、この子、と呼んだ自分に真由子は気づいた。

それに・・・・この薄暗さはなに?

「それ」を抱いたまま、診察台の上で体をねじり、足を床に下ろそうとした。股関節が痛んで、低く唸った。静かに静かに、体重を移動させた。
裸足の足が床についた。冷たい。氷みたいだ。
そのまま両足に体重をあずける。
多分、痛い。きっと何処かがひどく痛む。
その痛みを覚悟するために、首に力を入れて少し横に捻った。
診察の時、真由子を上半身と下半身に分断していたカーテンがなくなって、
診察室の奥の壁が見えている事に初めて気がついた。
誰かがもたれかかっている。
暗くてよく見えない。
壁に張りついたシミのようなあれは・・・・誰。
真由子は立ち上がった。予想に反してどこも痛まなかった。
ゆっくり、その「誰か」に近づいた。
不思議だ。「誰か」だ、と思うのに、それが人間だとは思えない。
真由子は30センチまで近づいて、それが医者であることに気づいた。
だが、それはすでに人間ではなく、壁と同化したレリーフだった。

石になってる。医師が石。イシがイシに。
あはははははははははははははは。

訳のわからない感情がこみ上げてきて、真由子は吐きそうになった。
腕の中で「それ」がほんの少し身じろぎした。
真由子は理解した。
ここにいてはいけない。ここはもうだめだ。
なにがだめなのかはわからない。でももうだめなんだわ。
その時、なにかが真由子の左足首を掴んだ。
ぬるっとしたなにか。
ああ、見たくない。見なくても分かる。なにかとてもよくないものだ。
逃げなくちゃ。
真由子はそれを振り払おうとした。
だがそれは強い力で真由子の左足の動きを封じた。
首を後ろにねじって、確かめた。
大きな赤黒い肉の塊から伸びた触手が、くるぶしにからみついている。
さっき噛み切った臍の緒にそっくりだ。
なぜか少しも怖くなかった。
ちくしょう。
呪詛の感情が吹き上がった。
ちくしょう、邪魔するんじゃない!
肉の塊はずるずると近づいてくる。
黒いスイカのようなコブに、白い布キレが乗っている。
ああ、これは看護婦さんだ。このひとも、もうだめなんだ。
真由子は左足を軸にして体ごと振り返り、右足を思い切り持ち上げて、
「元看護婦」の中心めがけて振り下ろした。
抵抗は殆どなかった。右足はいともたやすく、「元看護婦」にめりこんだ。
太ももまでがその体に埋まると、
とても下品な音をたてて赤黒い液体が吹き上がり、真由子を濡らした。
それはすこしだけ暖かく、妙に甘酸っぱい匂いがした。
腐ったワインってこんなかしら。
液体の噴出が止まると、「元看護婦」は、からっぽのゴミ袋のようにしおれ、からみついた触手は瞬く間に乾いて、
焚き火にくべられた藁縄のように崩れた。

逃げようね、シンちゃん

真由子は腕の中の「それ」に頬を寄せて言った。
扉を開けた。
薄暗い廊下をほんの数メートル進むと、誰もいない待合室。
いや、多分人間だったものが、椅子やテーブルと溶けあったり、
床から突き出た肌色の突起になって蠢いてはいる。
大きな窓の向こうは深紫の闇。
黄色い三日月は嘲笑。
冷気が診察着の隙間から真由子の体を突き刺した。
「待って」
声がした。女の声だ。
「お願い・・・待って・・・・」

いやよ、待ってなんかあげない。

真由子は振り返らずに、病院の玄関を飛び出した。

病院の向かいにあるパン屋。
その隣には写真屋。
そうだ、母さんがあたしを生んだのはこの病院だったって、昔聞いた事がある。帝王切開で生まれたあたしは未熟児で、4週間も病院から帰ってこれなかったって。

だから、あなたを抱いてこの病院の玄関を出た時は、
ほんとうに嬉しかったのよ、真由子。
お土産に、あのパン屋さんでプリンを買った。
写真屋さんには、入院中に撮った写真を現像に出した。
よく晴れた日だったわ。
素晴らしい青空が広がってた。

だからこんなによく見えるの?
だって今、そこらじゅうが真っ暗じゃない。
なのに、パン屋さんも写真屋さんもあんなにはっきり見える。
これが、かあさんの記憶だから?
それとも、あたしが生まれて始めて見た「世界」の景色だから?

路地を走り抜けて、大通りに出た。
誰もいない。
車の姿もない。
大通りに並ぶ建物は、すべて暗い紫色に塗りつぶされ、
その輪郭だけがかろうじて残っている。
爛れた腫瘍色の車道が時折ゼリーのように震えた。
舗道は少し柔らかく、ところどころ透き通ってピンク色の襞をのぞかせている。
激しく息を切らして、真由子は走った。
診察着が、気の狂った蝶の羽のようにはためいた。
苦しい。だけど走らなきゃ。走って逃げなくちゃ。
でも、どこへ?うちへ?
うちはどこだっけ?
思い出せない。
でもかまわない、きっとうちに逃げてもだめだ、
母さんも妹も、もうだめなんだ。父さんも。
確信があった。
だって、終わろうとしてるじゃない。
だめになろうとしてるじゃない。
もうずっとこの準備はされてたんだ。
でも誰も気がつかなかった。
世界はもうずっと、終わろうとしてたんだ。

・ ・・じゃあ、どこに逃げればいいの?

分からなかった。
それでも真由子は走った。
大きな交差点に差し掛かかった時、
糜爛した道路を隔てた、かつて信号機だった突起物の向こうに、それは見えた。真由子の両足は数分ぶりに同時に舗道を踏み、舗道はぐにゃりと歪んだ。

人だ。暗くてよく見えないけど分かる。あれは人だ。
黄色い三日月の曖昧な光。
だれ、と言おうとしたが、言葉にならない。
ひゅう、と、息が漏れた。
真由子は目をこらし、近づいてくる黒い影を見つめた。

ちいさな女の子。
まるで真由子のパロディのように、人形を抱いている。
違う・・あれは、人形じゃない。ほんものの赤ちゃん・・・

女の子は真由子のかたわらに歩み寄った。
赤ん坊は静かに眠っている。
真由子の腕の中の「それ」のように。
女の子の真っ青な瞳が真由子を見上げた。
「あ・・・あなた・・・」途切れ途切れに言うのがやっとだった。
「どうしたの・・・こんなところに・・・いちゃ・・・ダメ」
「I was floating…….」
女の子は言った。
「and・・・suddenly I found myself here」
浮いてた? いきなりここにいた?
真由子はふうっと一度深呼吸して、女の子の視線にあわせて膝を折った。
「・・・Honey, Can you tell me your name?」
「Susie」
スージー。
スージーが「and this baby is・・・・」と言い始めるのと、
真由子が立ち上がって、左手でスージーの肩を叩いたのは同時だった。
「スージー、行きましょう、一緒に逃げよう!」
スージーはカルロスの名前を飲み込むと、
走り出した真由子のあとを追った。

二人は走りつづけた。
何度か、とてもいやなオレンジ色に発光した巨大な芋虫が道路でのた打ち回っているのを目撃した。独楽のように激しく回転し、肉片を飛び散らせながら消えていく真っ黒な犬も見た。
そのたび、真由子は叫んだ。
「スージー、あれを見ちゃダメよ!あれはもうダメなの!」
そのたび、スージーは思った。
このひとはなんて言ったの?
だが、何も聞き返さず、ただ走った。
カルロスは少しも重くなかった。
ひょっとしたらまだ浮いているのかも。
スージーは思った。
このひとは誰なんだろう。
なぜウサギを抱いて走っているんだろう。
そして、なぜあたしはこの人について行くんだろう。

真由子が急に立ち止まった。
スージーはカルロスを抱いたまま、どしん、と真由子の背中にぶつかった。
なにか、とてもいい匂いがした。
真由子は、何かを見上げている。スージーはその視線を追った。
輪郭を失っていない大きなビルがあった。

ここ・・・・

そう言ったつもりだったが、
やはり、ひゅうという音にしかならなかった。

ここだ
あの時、シンちゃんの頭の上に白いウサギが落ちてきた
このビルの上から
そして

診察着が引っ張られた。
スージーが怪訝そうなまなざしで見上げている。
「スージー」真由子は言った。
「あたしはこのビルの屋上に行かなくちゃならない。
Roof of this building・・・・」
「roof・・・・?why?」
「ここが始まりの場所だから」
いまこのひとは、とても大切な事を言ったかも。
「スージー、カルロス」
再び真由子は言った。
「ついておいで」
スージー、カルロス。
このひとはいま、確かにそう言った。
でもどうしてカルロスの名前を知ってるの?
このひとは誰?

真由子はあたりを見回して、ビルの入り口を探した。
ガラスであることをやめた大きなショーウィンドウは
かさかさに乾き弛んだ老人の皮膚のようだった。
真由子は凄まじい速さで、ビルの前を往復した。
舗道はみるみるえぐれ、赤紫の細い管をむき出した。
入り口は見つからない。
真由子は左腕で「それ」をしっかりと抱え直し、右腕で激しくショーウインドウを叩いた。鈍く歪んだ音が闇を揺らした。
「入れて!」
真由子は叫んだ。
「あけて!ここを開けて!!」
ふと、舗道に突き刺ささった、鋭利な物体が目に入った。
三日月の黄色い光に照らされても、それは銀色に輝いた。
スージーがそれを引き抜いた。
鋭いメス。
真由子はスージーからそれを受け取ると、ショーウインドウにつきたて、
一気に縦に切り裂いた。
噴出した液体は、やはり腐ったワインのようだった。
裂け目を強引に広げ、真由子は中にすべりこんだ。
スージーも後に続いた。
エレベーターもエスカレーターも癒着して使い物にならなかったので
真由子とスージーは階段を昇った。
ところどころ変形した階段は、深い眠りの中にいる人の心臓の速度で
膨らんだり縮んだりを繰り返していた。
この中は暖かい。とっても。
真由子の額を、首筋を、両腕を、背中を、乳房を、腹部を、臀部を、両足を、羊膜のように汗が蔽った。それは絶え間なくしたたり落ちて、腕の中で静かに眠りつづける「それ」を濡らした。
すごい汗。スージーは思った。あたしは少しも暑くないのに。
踏みしめた階段が、妙な声をあげた。
急いでるの、ごめんね。
スージーは階段にウィンクした。
あたしは屋上に行くの。どんどん昇って、一番上まで。
でも、ほんとうにこのひとと一緒に行っていいのかな。
階段の踊り場を曲がる時、真由子の診察着が翻った。
いい匂い。スージーは思った。
大丈夫、このひとはいい匂いがするもの。

とうとう昇るべき階段がなくなった。
階段の終点から、ほんの数メートル離れた鉄の扉を開けた。
温い空気が、深紫の闇に向かって一気に拡散した。
屋上。
どのくらいの広さがあるのかは分からなかった。
いくつもの真っ黒な影が、何かを忙しそうに運んでいる。
引越しの準備みたいに。
どの影も、輪郭がぼやけていて、よく見えない。
あれは・・・人間じゃない。
この世界には属さない、なにか。

ここは・・・そうだ。不思議の国のアリスフェア。
でもほんとは違う。
この世界が終わる時のための準備を続けてるんだ。

「なんだぁ?」
甲高い声がした。
ウサギが屋上の手すりの上に腰を下ろしていた。
真っ白で青い目の、大きなウサギ。
「まいったな、よくここが分かったもんだ」
ウサギは、いかにもウサギらしい身軽さで、手すりからぴょん、と飛び降りた。
「耳が見えた」真由子は静かに言った。
「目がいいね、きみは・・・・・おや、そいつは」
ウサギは目を細めて真由子の腕の中の「それ」を見つめ、そして叫んだ。
「・・・・な、なんでそいつがこっちに!?」
一層甲高い声で、「それに、スージーとカルロスまで?!」
どうしてこのウサギが言っていることはわかるんだろう。
スージーは首をかしげた。
夢の中で何度も会ったから?
そういえば、このウサギに抱きついて泣いてた男の人はどうしたんだろう。
いっしょにいた女の人は?
二人の声や顔を思い出そうとしたが出来なかった。
スージーは問いかけるように真由子を凝視した。
真由子は黙ってウサギを見つめている。
「・・・・そうか、そういう事か」
ウサギは、内臓まで一気に吐き出してしまいそうな溜息をついた。
「結局、きみは終わらせてしまったんだな」
真由子の唇は硬く閉ざされたまま、ぴくりとも動かない。
その表情の険しさに気圧されて、
「そんな怖い顔しちゃイヤん!」
ウサギはぴょん、と跳ねて宙返りをしてみせた。
「言っただろう、あれは事故だったんだ。
あいつを殺すつもりなんて、これっぽっちもなかったんだって」

シンちゃん・・・・かわいそうなシンちゃん

「何故だか分からない。でも、あいつは鋭すぎた。
世界のあちこちから沁み出して来る終末に気がついてしまった。
僕らの、ほんとに細かい情報のやりとりに気がついたんだ。
Shogo townがなくなる、なんて事は全体から見れば1000億分の一、いや一兆分の一にも満たない些細な情報に過ぎなかったのに・・・・
それでも、あいつは反応しちまった。こりゃあちょっとマズいんでね、いろいろと。だから僕はほんのちょっと・・・その、修正するつもりだった。
あいつの脇をかすめて、ほんの少し、記憶を消してやるつもりだったんだ。
そしたらちょっと狙いが狂って」

屋上から飛び出したウサギは新一に激突した。
新一の頭は、落としたスイカのように砕けてしまった。
真由子は絶叫しながら、新一を抱きしめた。
しかし、赤や透明の液体の噴出を止める事は出来なかった。

「でも僕は約束を守っただろ。
きみの世界の中で、あいつはずっと生きてたじゃないか。
“あっち”では、あいつ、すごく生き生きしてただろ」

ニ度と会えない事を覚悟するなら、新一は「きみの世界」の中で生きられる。
あの時ウサギはそう言ったのだ。
ニ度と会えない事を覚悟するなら。
そして、あたしは覚悟したのだ。
あの時、確かに覚悟したのだ。
だから、あたしの知らない人と飛行機に乗ってメキシコの街に行ったシンちゃん。だから、あたしの知らない顔で笑ってたシンちゃん。

だから、一度も会えなかった、シンちゃん。

でもあんなの間違ってた。
だってあれは全部・・・

「納得してくれてたハズだったろ?
きみが約束を守ってる限り、あいつはきみの世界の中で生き続けたはずだ。
でもきみはその約束を破ろうとしたよね。
メモを書いてほんとうのことをあいつに教えようとした。
これは許されないルール違反だ。だから僕はきみが書いたメモを破った。どうしてあんな事・・・・」
「だって・・・」真由子の頬を涙が伝った。
「だってあれはウソだもの」
「ウソじゃないんだって」
「シンちゃんはあの時死んだんだもの」
「死んじゃいないさ。あいつはほんとうに生きてたんだ。ああ、もう!」
ウサギはじれた様子で空を見上げた。
耳がプルプルとふるえた。

「とりあえず“あっち”は無事なはずだったんだぜ、真由子。
ちょっとミステリアスでノスタルジックな、きれいなきれいな世界のはずだった。きみが知らんぷりしてさえいればね。
でも、いきなり、妙な皮膚病が流行ってる、とか、出血熱にかかった日本人が香港で感染を広げそうだ、とか虚無が侵入してるって報告を受けて、
一体なにごとなんだ、とは思ってたんだが・・・・
そのうち収まるだろう、と判断してほおっておいた。なにせ“こっち”のことで手一杯だったからね。それが・・・・・まさか終わらせちまうとは。
きみはきみの世界を、完全に消しちまったんだぞ!」
ウサギは鋭い前歯を真由子の鼻先に突きつけて叫んだ。
「それがどんなに大変な事だかわかるか!?」
真由子の目から溢れ出る涙が、ぽたぽたと診察着に落ちた。
スージーは、抱いていたカルロスを背負うと、真由子に歩み寄り、
両手を思い切り広げて抱きついた。
泣かないで。
だって、あなたはこんなにいい匂いがするじゃない。
「・・・いや、ここできみの責任を追求しても意味はない」
ちょっとバツの悪そうな表情で鼻をひくひくと動して、
ウサギは真由子に背を向けた。
丸めた背中を蔽った真っ白な体毛が、妙にまぶしく見えた。
「すでに終わった事だ・・・・どっちみち、“あっち”もダメだったのかもしれないし。きみの世界である“あっち”も、世界、であることにかわりはないから。・・・・・世界ってのは儚いねえ、まったく」
ウサギは振り返り、真由子の腕の中の「それ」をじっと見つめた。
「・・・・でもまさか、そいつが虚無のトンネルをくぐって、きみのもとに戻って来れるとは」
真由子の右手が「それ」の小さな頭を撫でた。
長い耳が、ぴくりと動く。
「まあ多少、形は変わってしまったが。それに」
今度はスージーに視線を向けて、
「スージーにカルロスも無事だ!まさに母は強し、だな。よかったな、スージー、カルロス。ママに会えて!」
ママ?
このひとがあたしのママ?
カルロスのママ?
「そうさスージー、真由子はきみのママ、カルロスのママ。
“あっち”できみたちのパパたちと結婚して、きみたちを産んだ」
「覚えてない・・・」真由子は涙をぬぐいながら首を振った。
「そりゃそうだ、全部覚えてなんかいられないさ」
ウサギは再び、腕組みをして何度もうなずいた。
「世界は脆く儚いが、複雑だ。でも、会った瞬間分かっただろ、この二人がきみの子供だって事は」
真由子はゆっくりとうなずいた。
スージーは黙って少し首をひねり、背中で眠っているカルロスの顔にほおを寄せた。よかったね、カルロス、やっぱりこのひとはママだった。
だからいい匂いがしたんだ。
「まあ、残念ながら他のヤツらは全部、俺が食っちまったが」
ウサギの右肩が盛り上がり、もう一つの頭部が現われた。
赤い目のウサギだ。
「六郎を“消去”したあと、“消去”じゃなくて食ったらどうだったんだろう、
って思ったのさ」低く野太い声を遮るように風が吹いた。
「どうせ“あっち”はなくなるって分かってたし、それでちょっと試してみた」
「なんだよ、お前は気付いてたのか、“あっち”が終わること」
青い目のウサギがあきれた、という表情をつくった。
「お前とは経験が違うんだよ!」赤い目のウサギは得意気に言った。
「一応食い止めようとはしてたんだがな・・・・幻覚性の出血熱にかかってる事にさっぱり気づいてなかったマヌケな六郎があのまま動き回ってれば、それだけで“あっち”はオシマイだった。で、消去」
右腕の指をパチン、と鳴らして、
「そこまではなんとかうまくやったんだが、そのあとの虚無の侵入には太刀打ちできなかったね。すげえイキオイだった。ああなったらもう止められない」
三日月から落ちてくる冷たい風。
真由子を蔽っていた汗の羊膜はもうすっかり乾いていた。
「それにしても、食う、ってのは実にくだらん行為だ。
有機体が生きるために別の有機体を殺して取り込む。
ああ、まったくおぞましいね。二度とごめんだ」
赤い目のウサギがペッとツバを吐いた。
ピアスが転がった。
「やっぱりもともと終わる必要があったんだなあ、
この世界システムは。根本的なムリがある。」
あれは桑島朋絵のピアスなのかもしれない。
でも、もうそんな事はどうでもよかった。

「それで、真由子」青い目のウサギは、ちら、とピアスに視線を向けてから
そう甲高くない声で言った。
「つまるところ、きみはここへ何をしに?」
「そりゃあ、お前を殺しにきたんだろ」
赤い目のウサギが、きししししし、と笑った。
「なんたって、お前は恋人のカタキってやつだしな」
真由子は答えず、スージーの手をひいて双頭のウサギに歩み寄った。
「おっ、おい!!」
青い目のウサギ側の足がばたばたと屋上の床を蹴ったが、
赤い目のウサギ側の足はぴくりとも動かなかった。
「そうね、確かに」
真由子は手すりに体を預けて目を閉じた。
「ちょっとはそんなこと考えたのかも。
でも・・・・もうじき、終わっちゃうんでしょ」
「ああ」青い目のウサギはうなずいた。「なにもかもね」
「だからやめた。意味無いもん」
海月のような闇が真由子の頬を撫でた。
「なにが間違ってたのかな、この世界の」
「さあ」赤い目のウサギが言った。
「間違ってるとか正しい、とかいう意味では、別になにも間違っちゃいないよ」
「そう」青い目のウサギが言った。
「別になにも間違っちゃいない」
「ただ、もうずっと前から病気だった。だから終わるのさ」双頭のウサギが言った。「俺たちはただそれを見届けるだけだ」
「あたしはどうすればいいの?世界が消えてなくなるって時に、
こんなひどいカッコで腐りかけの建物の屋上に立ってる。
結婚もしてないのに三人の子持ち」
「うーん、正確には何度もしてるんだが・・・」
青い目のウサギは咳払いして頭をかいた。
「まあ、現状では確かににそうだな」
スージーが真由子のわき腹に顔をうずめた。
「なんにせよ、だ。きみがこれからどうするか、は、いつだってきみの決めることさ」
青い目のウサギは言った。
「ここで終末を待つもよし、逃げるもよしってとこだな。例えば」
赤い目のウサギは三日月を指差した。「あそこへ」
「おい、もうちょっとマジメに考えてやれよ」と青い目のウサギ。
「俺はいつだってマジメだよ!」と赤い目のウサギ。
「マジメだぁ?どうやって月へ行けって言うんだ?」
「決まってるだろう、ロケットに乗りゃあいい!」
「ロケットはもう飛ばないよ」青い目のウサギの耳がくるりと回転した。
「ついさっき、燃焼に関する物理法則が無効になった」
「・・・あ、ほんとだ」赤い目のウサギの鼻がせわしなく動いた。
「無効の匂いだ」ひくひく。「この世界はよっぽど重症だったんだな」
真由子はなんだか可笑しくなった。
なんなの、ムコウの匂いって。
あ、ムコウって無香じゃないのか。
「いい。もういいや。あたしはここで全部見てることにする」
双頭のウサギは口をつぐんだ。
「全部消える。あたしも消える。シンちゃんも、スージーも、カルロスも。
それが現実なんだから、しかたないじゃない」
「・・・ほんとにそれでいいのか」
「いいのよ、ありがとう」真由子は穏やかな表情で言った。
「あなたたちは・・・・思ったよりいい人ね」
「俺たちは」「僕たちは」
「人じゃないし、第一、よくも悪くもない」
主語を除いて完全なシンクロで言うと、双頭のウサギは胸を張った。
「ただの観察者で、たまにナビゲーターなだけだ」
真由子の左手がスージーの頭を優しく撫でた。
「・・・・ほんとに、もういいの。この子たちと一緒だし」
ママ。
あたしはママがなんて言ってるかわかるよ。
ママと一緒だから、こわくないよ。
きっとカルロスも。
「それに・・・・・なにより、シンちゃんと一緒だし」
真由子は右腕を少し持ち上げて、「それ」を引き寄せた。
「それ」がゆっくりと顔をあげた。
真っ黒な瞳。
何も映していない、虚無の瞳。
だが、すべてがそこから生まれるような真空の瞳。

シンちゃん

あなたはなにを見てるの
もうすぐここは終わってしまうの
せっかく初めてこの世界を見たのに
かわいそうなシンちゃん

あたしは
あたしが生まれて
あたしが生まれて初めてみた世界は


深紫の闇が静かな鳴動を始めた。
三日月の光がリボンのように揺れる。
屋上の床が、ゆっくりと波打ち始める。
さっきまで蠢いていた黒い影たちはもう、どこにもいない。
「そろそろだな」
輪郭のぼやけた手すりから身を乗り出して、青い目のウサギが言った。
「ああ」赤い目のウサギが鼻をひくつかせてうなずいた。
「化学組成律の崩壊が始まった。イヤな匂いだ」
あとほんの少しで、この世界は真空の中に消える。
「ねえ」突然、真由子が言った。
四本の耳はいっせいに振り返り、
耳以外の部分が慌ててその動きに追いついた。
「ごめん、あたし・・・・やっぱり、行くわ」
「行くってどこに?」青い目のウサギは左側に首をかしげた。
「いまさらどこに?」赤い目のウサギは右側に首をかしげた。
「あのね、変だって言われるかもしれないけど、聞いて。
ここに来るまでに、たった一箇所だけ、なにも変わっていない場所があったの」
「なんだって!?」双頭のウサギは叫び声をあげると、
「そんなバカな!」
ふさふさの毛に覆われた腹から金時計を取り出し、二つの頭を寄せ合った。
「・・・ほっほんとだ・・・
ポイント、V236574、H815356、T145900」
「信じられない・・・・なんでこんな・・・!?」
「わからん・・・しっ、しかし、確かに・・・
ここにたどり着ければ、きみは逃げおおせるかも」青い目が真由子を見つめた。
「でも、きみはいまのきみではなくなるかも」赤い目が真由子を見つめた。
真由子は「新一」を抱く右腕に力をこめ、
カルロスをおぶったスージーの右手を強く握り締めた。
「かまわない」
「それがきみの選択なんだね」低い、優しい声。
「うん」
「わかった」
双頭のウサギは指をぱちん、と鳴らした。
何万匹ものハチの羽音のような唸りをあげて、
波打つ屋上の床に孔が開いた。
マンホールほどの大きさの、漆黒の孔。
「ちょっとした規則違反だが、一時的な虚無のトンネルを作った。
僕らにできる事はこれだけだ」
青い目のウサギが言った。
「このトンネルが,きみの見つけたポイントにつながる確率はわずかだぞ」
赤い目のウサギが言った。
真由子は黙ってうなずいた。
闇の鳴動が一気に昂まった。
屋上の床が断末魔の恐竜の腹のように上下する。
空は無数ののたうつ蛇の形に裂け、
その亀裂から飛び散る群青の飛沫が三日月を砕き、
その破片は真っ赤な糸を引いて、虚空に巨大な羽を描いた。
漆黒の孔の輪郭がみるみるぼやけはじめる。
「さよなら、真由子」双頭のウサギが言った。
「新一」とスージーを抱きかかえた真由子は、少しだけ笑った。
「さよなら、ウサギさん」
真由子の両足が終末の淵を蹴り飛ばした。
黄金色の風が診察着を膨らませた。
空翔ける船の帆のように。
そして漆黒の孔は真由子を迎え入れた。
深く深く。
どこまでも深く。

これはなんていうんだっけあたたかいやわらかい
これはなんていうんだっけあたたかいやわらかい


あたしがはじめて見た世界 それは



                      2003年 5月22日

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