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猫のこと

幼い頃、猫が苦手だった。
家から歩いて5分ほどの母の実家では犬を飼っていた。
赤毛の中型犬で、俺になついていたわけでもなく特に可愛いと思った事もなかったが、母は「おばあちゃんは昔から猫が嫌いなの。おかあさんも嫌い。なんか猫って薄気味悪いじゃない」と言う主旨の言葉をたびたび繰り返した。その影響に加え、幼稚園に置いてあった少年雑誌で「仕事で三味線を作っている男の娘の額にネコ型の痣が浮き出た」とかいうイヤな絵物語を読んだのはかなり致命的だった。猫は祟る。執念深い。うわー。

更に追い打ちをかけたのは、当時この世で一番好きだったマンガ「鉄腕アトム」の「赤い猫」(確かこんなタイトルだった)の巻だ。その話では、なんと猫が人間の言葉を喋るのだ!震え上がった。フィクションと現実の境目が曖昧な幼年期真っただ中の俺は、そのへんの路地で野良猫を見かけるたびに、ニヤッと笑って話しかけられたらどうしようと怯えていた。

そして、小学校低学年の頃、事件が起きた。
ある朝、登校途中の学校の近所の草っぱらで、友達が潰れかけの段ボール箱を指さした。丈の長い草が生い茂った草むらの中のひしゃげた箱。
ありふれたゴミだ。
「なに?」
「なんか鳴いてる」友達が言った。耳を澄ませた。
ほんとだ、鳴いてる。
ニィニィニィニィ。
「なに?」同じ事を聞いた。
友達はひしゃげた箱に駆け寄り、破れかけの蓋を開けた。
薄い毛におおわれたピンク色のかたまりが3つ、
体を寄せ合って蠢いていた。心臓がはねた。
「ネズミ?」
「猫だよ」友達はすぐに答えた。
「うそ。こんなにちいさいの?」初めて観た。これが猫?
「ちいさいね」と友達も言った。「捨てたんだよ、誰かが。ちいさいのに」
ニィニィニィニィ。
「かわいそう」
「どうしようか」
「どうするって?」
「おなかへってそう」
「つれていく?」
二人とも黙ってしまった。ぽつぽつと雨が降り出した。
ニィニィニィニィ。
学校に連れて行くわけにはいかないのは明らかだった。
「またあとで来ようよ」友達は言った。名案だ。
「うん、学校終わったら来よう!」
「でも、寒くないかな」
雨は段ボール箱の破れた蓋を伝って子猫たちを濡らし始めた。
「あ、見っけ!」と友達が声を上げた。彼はくさむらをざざっと走って、
折りたたまれた分厚い段ボールを拾い上げた。
「これをかぶせとこうよ」
「うん!」
蓋を元の状態に戻して、二人で箱の上に何重にも段ボールを重ねた。
その奥から、子猫の声がかすかに聞こえる。
雨が強くなっても、これで大丈夫。安心して草むらを後にした。

放課後、別の友達も誘って、一目散に草むらに向かった。
本降りの雨は雑草の葉先から長靴の隙間に入り込んで靴下を濡らした。
ダンボールもびしょ濡れだった。
「そこ?」別の友達が尋ねた。「その中に猫がいるの?」
「そう!」濡れて重たくなった雨除けのダンボールをめくりながら意気揚々と答えた。「この下!」
友達が段ボールを勢いよく跳ね上げた。
ひしゃげた箱は、かぶせたダンボールのせいでもっとひしゃげていた。
イヤな感じがした。友達はゆっくり蓋を開けた。
うすい毛の生えたピンク色のカタマリが3つ。
変だ。さっきと違う。
カタマリたちは動かなかった。俺たちは凍り付いた。
死んでる。みんな死んじゃった。
ぼくたちがかぶせたダンボールが重くて潰れた。
とんでもない恐怖感が襲ってきた。
雨除けの段ボールを投げ捨てて、俺は駆け出した。
みんな逃げ出した。全速力で。声も上げず。
そして二度と、その草むらには戻らなかった。

あんなに猫を怖がっていたのに、祟られるんじゃないか、とは一度も思わなかった。あの子猫たちがあまりにも小さく無力だったから。
罪悪感がずっと消えなかった。
余計な事をしなければあの3匹は死ななかったかもしれない。
あのあと、死体はどうなったんだろう。何故埋めてやらなかったんだろう。
それよりなにより、最初から学校に連れて行ってればよかった。
濡れた雑草の匂いと湿った段ボールの感触、硬直した小さな猫の姿を思い出しては深く沈んだ。
間違いなく、この時から、「猫」ははますます遠い存在になった。

それから10余年、俺の高校卒業とほぼ同時に、福田家は東京都板橋区東坂下から約60キロ離れた埼玉県の鳩山村に引っ越すことになった。
昔から「広い庭つきの家」に憧れていた父が、10年以上前に購入してあった土地に家を建てたのだ。地方公務員が「広い庭つきの家」に住むためには「都落ち」する必要があったわけだ。準工業地帯でとんでもなく空気の悪い東坂下を抜け出して郊外生活を送りたい、という北海道出身の父の気持ちは分からなくもなかったが、この引っ越しによって、俺は鳩山村から早稲田まで、片道2時間の通学を余儀なくされてしまった。

一応「東京生まれ東京育ち」の俺にとって、鳩山村はまさに「ど田舎」だった。池袋から東武東上線急行で45分もかかる坂戸駅から、1時間にほぼ1本しかない路線バスに乗って15分。さらに停留所から、桑畑と麦畑とクマ笹の茂みに囲まれた「おしゃもじ山」を越えて10分。彼方に連なる秩父連山の眺めはなかなか美しく、空気は確かにいい。
でもそれがなんだ。なんで親父の夢の為に、こんな不便な所に住まにゃならんのだ。実際、坂戸駅からの最終バスが夜8:50に出てしまうので、なんと池袋8:00発の急行に乗らなければ家に帰り着けないという生活は、「遊び盛り」の大学生にとっては地獄だった。

そんな田舎暮らしにも少し順応し始めた初夏の或る日。
2歳下の妹がいきなり俺の部屋のドアを開けた。
「お兄ちゃん、ちょっと来て」
ノックの習慣は福田家にはなかった。
「なに、俺、今、宿題・・」
「大学生なのに宿題なんかあんの?」
「あるよ!明日テストで」
「いいからちょっと来て」
昔から妹は言い出したら聞かない。
請われるまま仕方なく妹の部屋に入ったそのとたん、
「うわっ、なに、臭くない?」
鼻をツンと刺すような異臭。
妹は黙って部屋の隅を指さした。
子猫が寝ていた。白い毛に薄茶の模様。
そんな至近距離で子猫を観るのはあの草むらの一件以来だ。
「えっ、猫?!なんで?」
「しっ!!」
妹は人差し指を唇にあてて俺を睨み、声を潜めた。
「さっきね、学校の帰りに、おしゃもじ山のあたりで見つけたんだよ」
妹は、川越線の指扇にある某音大付属の高校に通っていて、
時間帯は違うが俺と同じバス路線を使っていた。
「おなかすいたみたいで、かわいそうだから連れて来た。さっきミルクやったら飲んで、おしっこして寝た。かわいいでしょ」
あの草むらで見つけたネズミみたいな子猫たちと違って、その猫はどう見ても「いわゆる子猫」だった。確かに可愛い。
「でもお母さん猫嫌いじゃん」
「うん。どうすんの。」
「あたしの部屋で飼う。外に出さないで。」
「無理だろ」
「平気だよ。この子あんまり鳴かないし。」
「いや、だってこの匂い・・・」
「猫のおしっこは臭いんだよ。」
「だから、お母さん、鼻いいし気が付くって」
私の嗅覚は犬並みよ、と母はいつも言っていて、それはあながちオーバーではなかった。
「ここ二階だし、ドア閉めとけば大丈夫!とにかくお兄ちゃん黙っててね」
妹よ、お前の行動は正しい。昔、子猫を見捨てた俺の行動の数千倍。
だがそれにしたって「・・・いや、絶対バレるだろ」
「いいから、黙っててね!」

こうして妹が自室で秘密裏に猫を飼う生活は奇跡的に1週間ほど続いたのだが、ある日の夕飯時、とうとう母親が異変に気付いた。
それは臭いによってではなかった。
「なに、ちょっと、あなたその足どうしたの!?」
俺もその時初めて気づいた。妹の足は赤い斑点にびっしり覆われていた。
「え、なんでもないよ、大丈夫」
「大丈夫じゃない!いつからそんななの!?」
母親の動揺は無理もなかった。俺自身、後にも先にも、そんな状態の女の子の素足を見たことはない。明らかに異常な数の虫刺され痕。
「さあ、いつのまにか」妹はとぼけた。
「いつのまにかなわけないでしょ!」
「部屋に蚊がいた」
「部屋?じゃ、殺虫剤まかないと!」
母親は常備してある殺虫スプレーを手に持ち食堂を出て行こうとした。
「待って待って待って!」妹が制止した。「大丈夫だから待って!」
「何が大丈夫なの!殺虫剤!」
妹は諦めた表情になって
「わかった。わかったから。待ってて。」
「え?」
「今連れて来るから、待ってて」
「?」
妹は妙に堂々とした足取り食堂を出て自分の部屋に行き、一週間前よりさらに「子猫」になった子猫を抱いて戻って来た。
母親は目をひん剥いた。
「何それ!どうしたの!」
「拾った。お母さん猫嫌いだから、部屋で飼ってた。そしたらノミに刺された」猫ノミがこんなにも非情に人間から血を吸う事を初めて知った。
「猫なんか飼わないわよ!捨ててきて!」
母はそう言い放つと台所のシンクに向かって食事の用意を始めた。
子猫はあからさまなその拒絶に反応したかのように、ニィ!と鳴いた。
「おなかすいたんだね、ミルクあげよう。お皿取って来るからお兄ちゃん、この子持ってて」妹は余りにも予想通りの母の反応には全く動じず、子猫を俺に預けた。生まれて初めて子猫を抱いた。柔らかくて暖かかった。やばい、これは可愛い。
「ノミうつるわよ!」母はこちらを見もせずに言った。「全くもう、相談もしないで部屋で飼うなんて!」
だって相談したってダメじゃん、と言おうとしたがやめた。
妹が戻ってきて、小皿を床に置き、冷蔵庫から牛乳を取り出して注いだ。
俺は猫を床におろした。
「そのお皿、勝手に使ったのね!どうりで見当たらないと思った!」
という言葉で、母が子猫の方を見ている事が分かった。なんだ、ちょっとは気になってるんだな。
ニィーー!と子猫は声を上げてミルクを飲み始めた。子猫は鳴くのをやめず、ニォニュヤニュウニャォウ・・と、文句を言いいながらミルクを舐める。俺も妹もその様子を見て笑った。信じられない程可愛い。なんなんだこれは。ニャオニィニュウニュワ・・
すると。なんと、母も笑ったのだ。
「・・・なぁに、その子、怒ってるの?」
俺と妹は顔を見合わせた。子猫はなおも鳴きながらミルクを舐めている。
「おなかすいたんだもんねー」と妹。
驚くべきことに、母は子猫を見つめて微笑んでいた。
「そうね、ちゃんとご飯あげられなかったもんね」と母。「ごめんねー」
え、マジか?
「ね、飼っていいでしょ?」すかさず妹が聞く。
「・・・しかないわね。でも、ちゃんと世話してよ。」
それは、俺が人生において目撃した、最も鮮やかな逆転劇だった。
そういうのを「転ぶ」って言うんだよ、と、後日、大学の友達は笑った。

翌日から、子猫は福田家の正式な住人、いや飼い猫になった。餌場とトイレが設置され、ノミ取りシャンプーで思いっきり体を洗われ、「キー坊」と名付けられた。当時俺が大好きだったシンガー、上田正樹の愛称だ。因みに、福田家には先住の犬がいて、その犬の名前は「レグ」。エルトン・ジョンの幼少期の愛称だ。
キー坊はすくすくと育ち、昼間は村中を駆けまわり、気が向くと家に帰って来る立派な中猫になった。家では洋間のソファと玄関の下駄箱の上がお気に入り。家人にはよくなついたが、来客には必ずシャーッとすごんで体をこわばらせ、ぴょんぴょんと横っ飛びして見せた。当時、母方の祖母がひと月に一度ほどのペースで板橋からはるばるセリ摘みに来ていたのだが、キー坊にやたらとすごまれては「なんだ、こいつ、意地っクソ悪い!」と顔を真っ赤にして怒っていたが、その様子がなんとも可笑しくて、妹と俺は「キー坊はいい番猫だね」と笑い合った。最初に内緒で飼われトイレのしつけのタイミングを逸したせいなのかどうか、よく洋間の温風ヒーターの陰でうんちをしてしまうのには閉口したが、父も、中学生だった弟も、初めて飼う猫のキー坊をよく可愛がった。ただ単に「猫がいる」という事で、なぜこんなにも心が浮き立つのだろう。みんなそんな感じだった。中でも長年に渡って猫嫌いを宣言していた母の豹変っぷりは呆れるほどで、カレンダーは猫、ちょっとした置物なども猫、時計まで猫柄を買い揃える、完膚なきまでの「猫大好き人間」と化していた。

飼い始めて1年ちょっと経ったある日の夕方、キー坊が頭から血を流して帰って来た。見ると耳の後ろにかなり深い傷がある。
驚いた母が脱脂綿で血をぬぐおうとしたが、キー坊はさっと身を交わしていつも寝ている洋間に入って行った。村にはたくさんの猫がいて、ある時期になるとボスの座を巡って激しい争いが起きる、という話を近所の人に聞いたことがあった。「成猫」になったキー坊はその戦いに巻き込まれた、あるいは参加したらしい。
「どうしよう、病院連れて行く?」と俺は言ったが、人間様用にも「診療所」しかない小さな村に当然動物病院などはなく、坂戸の街まで連れて行かなければならない。しかしもう明らかに診療時間外だ。
「とりあえず、様子を見ましょう・・・」母は脱脂綿についたほんのすこしの血を見つめて言った。「明日、病院に電話してみるわ」
キー坊は洋間で丸くなって眠っていた。

翌朝、洋間を覗くとキー坊はいなかった。
「キー坊は?」食堂で朝食の準備をしている母に尋ねた。
「さっき起きて来てね。出せって言うのよ」
「え?」
「引き戸開けろって。凄く鳴くのよ。あたしの目を見て。」
「出したの?!」
「うん。」
「なんでさ、あんな怪我してんのに!」
「だって、あんまり出せって言うから。真剣な顔で。今度は負けないって。」
いつの間にか猫語を解するようになっている母をそれ以上問い詰めても無駄な気がした。俺はキー坊の無事を祈りながら学校に行った。

結局、キー坊は帰ってこなかった。
キー坊が出て行ってから数日後、猛烈な勢いで喧嘩をしている猫を見た、という近所の人がいた。灰色の大きな猫と白っぽい猫の取っ組み合いだったと。「白い子は、お宅の猫によく似ていたわよ。凄い顔して怒ってた」。
ああ、おそらくキー坊だ。灰色の大きな猫は、村でも有名なボス猫だ。やはりキー坊は再戦に臨んだのだ。
「キー坊、勝ったのかな」たまたま帰りのバスが一緒になった妹が、キー坊を拾ったあたりの道を歩きながらぼそっと言った。
「さあ。勝ったんなら戻ってくるだろ」
「だよね・・・・」
それから何度か周辺を探したが、一匹の猫を探し出すには鳩山村の山林は広すぎた。それ以降、キー坊の情報はすっかり途絶えた。
こうして、福田家が初めて飼った猫のキー坊は完全に姿を消した。

その後福田家は「2代目キー坊」「デンスケ」という二匹の猫を飼うのだがその話はまたいつか。



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