note書くかな

元来、書くことは好きだった。昔話から始めてみる。

横罫ノートに「イカルス衝突10秒前」というSFを書いたのは小学校4年の時。ちょうど、小惑星イカルスの地球への接近が話題になっていて、それに乗じた。詳細は忘れたが、とにかく地球衝突を食い止めるべく主人公(科学者)がイカルスに降り立ち、一つ目の怪獣と戦ったりしつつイカルスの爆破を試みるお話だったと思う。最後、科学者は仕掛けた核爆弾でイカルスと共に爆死、地球衝突を回避する。ヒロイック。今思えば「アルマゲドン」みたいな話。自分的にはうまく書けた!と思い(読者は自分しかいなかったのだが)、そこからすっかり「小説書き」が趣味の一つになり、5年生、6年生と書き続けた。

基本的には最後に「人類が滅びる」ペシミスティックな話が好きだった。
当時大評判だった映画「猿の惑星」「魚が出てきた日」などの影響もあったが、核実験と米ソ冷戦の空気感の中で、明日いきなり世界が終わってもおかしくない、という恐怖とも諦念ともつかない感覚が刷り込まれていたのだと思う。
南太平洋の原水爆実験場で巨大台風が発生、凄まじい放射能を巻き込んだまま日本を襲い、更にそれはソ連まで達し、それがきっかけで核戦争が勃発、全世界が滅びる「原子台風」は、その当時の生存不安をそのまま表した作品だったが、ラスト、何故か生き残った子供たちが「てのひらに太陽を」を高らかに歌う、という異様にパセティックなシーンがあった。
まあ、なんというか、泣かせたかったんだろうなあ、自分を。というか、世界が不安に満ちているから余計に「感動」したかったんだろう。

中学に入ると、同じSF好きのKくんという友人が出来た。
彼は6年生の時、新宿方面から引っ越してきたあか抜けた少年で、歩いて15分で埼玉県という板橋区志村坂下の雰囲気の中であきらかに頭一つ抜きんでた存在だった(実際、背も高かった)。常にアンテナを張っているタイプで、今はこういう音楽がカッコイイ、映画はこれが面白い、マンガはこれだ、などなど、情報発信力も抜群だった。
彼はエドガー・ライス・バロウズやE・E・スミスなどのいわゆるスペースオペラのファンで、俺はとにかくレイ・ブラドベリィが好き。共通して好きなのはフレドリック・ブラウンくらいで、正直あまり趣味は合わなかったが、とにかく大分類において「SF」が大好きである点では完全に一致。
その彼と「SFファン」という、ストレートにもほどがあるタイトルの、原稿用紙を綴じただけの回覧同人誌を作りはじめた。他にも仲間を数人増やし、原稿を集めては綴じていった。
製本技術も何もなかったので、とにかく原稿用紙をやみくもにホチキスでとめてあるだけのぐしゃぐしゃな第一号に、俺は「バクテリア大戦」という「大長編の第1話」を書いた。雲のような群体で人間を襲う飛行人喰いバクテリアと、なんとかいう名前の科学組織(忘れた!)の戦いを、60枚。
当時、「原稿用紙60枚の小説を書く」と言うのはかなりの大事業で、Kくんを含め友人たちはその「偉業」を素直に称えてくれた。俺は得意満面。
だが、そこは中学生。次号から「とにかく長いのを書いたヤツが偉い!」競争が始まった。

今思えば、あれは一種の祭だったと思う。
創刊第二号ではKくんが100枚書いた。タイトルは失念したが、確か、宇宙から来た不定形生物が次々人を襲って殺す話だった。100枚の中で相当の人数が死んだ。まあ、中学生が何かを書く時の大きなモチベーションは「合法的に人を殺す」ってことなので、その意味では極めて正しい作品だった。
第三号ではKくんの新宿時代の友達Oくん(彼は後に広告代理店に就職、コピーライターになった)が120枚の「終末」を書いた。核戦争後に滅びて行く人類の姿を描いたブラドべリィ的抒情にあふれた傑作オムニバスで、読んだ時は本当に総毛だった。こいつ俺と同じ年?!天才じゃん!!・・この頃になると、手先も器用だったKくんが見事な製本をしてくれ、全く型崩れしなくなった電話帳より分厚い回覧誌をめくりながら、俺は呆然とした。
でもそこは中坊だからね。「負けるもんか!」、だけの勢いで、第四号では俺が150枚書き、「バクテリア大戦」を終わらせた。人喰い飛行バクテリアの正体は宇宙人の侵略武器で、最後は宇宙人の母船を破壊して決着、という結末には全然納得が行かなかったが。
ちなみに、この枚数はあくまでも全て「一作品」の物量で、これ以外にも短編をいくつも書いていたから、結局、ほぼ勉強そっちのけで毎月200枚とか300枚とかを書くハメになり、明らかに学業成績に影響が出始めた。親には「試験前1週間は小説を書かない!」という文章を勉強机の上に貼り出された。

この、「とにかく多く書いたヤツが偉い」競争は、確か一年生の終わりに、俺が書いた「赤き血の香り」という167枚読み切りのホラーミステリー系SFで終止符を打った。
なんだかもうみんな疲れてしまい、「重要なのは長さじゃないんじゃないか?」という、世にもマトモな感覚を得るに至った。祭が終わったのだ。

それ以降、ブラウンやブラドベリィからJ・G・バラードや安倍公房に興味が移っていった俺は、ストーリーを語る事より、言葉の集積が生みだす内的世界での思考実験を繰り返すようになるが、いかんせんすべてが未熟な中学生。もちろん童貞。ぐるぐる渦を巻く感情もイメージも端的に表す事が出来ず、次第に文章を書く事自体が億劫になって行った。
ただ、何かが書きたかったことだけは事実で、この頃書きかけた小説の断片はいまだに記憶に残っている。指を怪我して通うようになった病院の傍の公園の金網が永遠に上空に伸びて脱出できなくなる話。宇宙の論理そのものが破綻していく世界で池袋の駅前広場に巨大な和服姿の女だけが佇んでいる話。ぴくりともうごかない渋滞の道路沿いの床屋に行って殺されそうになる話・・・・要は、思春期の得体のしれない存在不安だけがモチベーションになっていて、残念ながら俺には、それを小説として発展させることも完結させることも出来なかった。

当時、俺は、中学入学の時に祖母にもらった14金の万年筆で小説を書いていた。今思うと、あれは、書く、というより、刻む、という行為だったと思う。
今、誰もが手にした、キーボードを打てば活字がモニターに現れる、という夢のようなテクノロジーの何倍も野蛮で激しい方法。
俺は多分、自分の不安を、毎月何百枚もの原稿用紙に刻んでいたのだろう。そして多分、ある時、「もういいや」と感じたのだと思う。
不安を刻むのはもういいや。次に行こう。
つまり、俺は本質的に「書く人間」ではなかった、という事だ。




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