「往生際の悪いロマンチスト / 藤田一朗くんのこと」
4月19日、友人の脚本家 藤田一朗くんが15日に亡くなったと奥様より連絡を頂いた。
藤田くんと初めて会ったのは、ファー・イースト・ベイビーズの0号試写だったと思う。
ファー・イースト・ベイビーズのカメラマンをやった諸沢利彦監督が連れてきてくれた。
藤田くんは、NHKの『ネコノトピアネコノマニア』というドラマの脚本を書いていてそれがとてもいいと諸沢さんに話は聞いていた。
ファー・イースト・ベイビーズの試写を見た藤田くんは作品をとても気に入ってくれて、宣伝の文章やチラシのテキスト、マスコミ試写の紹介文をどんどん書いてくれた。そのどれもが藤田くんの洞察力の深さとユーモアと優しさを感じさせるものばかりだった。
藤田くんはとてもシャイなんだけど、作品に対してはとても熱く、そしてなにより素直でピュアな男だった。
その後、何度かあってから、1999年、地上波で「トーキョー#REMIX」という全12話のドラマを一緒にやった。諸沢さんが総合演出で藤田くんが脚本、僕は6話監督して6話はカメラマンで参加した。
自分の演出した6話はほぼ脚本も自分で書いたが「ここちょっと迷ってんだけど」と相談すると気軽に面白い視点でアドバイスをくれた。
最後に会ったのは2018年の「ちょっとの雨ならがまん」と「ファー・イースト・ベイビーズ」のリバイバル上映会。その後はTwitterとかで近況を知ってはいたが会うことは無かった。
2022年、コロナ禍で僕が監督した「素晴らしき日々も狼狽える」のラストのモノローグの一部に、
「往生際の悪いロマンチスト」
というワードが出てくる。
これは僕のオリジナルではなくて藤田くんの書いたワードの引用だ。
「決して諦めることなく、理想を持って現実に向き合い続ける人たち」
を、こんなに適切に表現する言葉は他に知らない。
それも「往生際の悪い」と「ロマンチスト」っていうどちらかというとディスっている2つのワードを組み合わせることで褒め言葉になるなんて、さすが藤田くんだ。
映画を観たたくさんの方からも「往生際の悪いロマンチスト」って言葉が良かったとコメントをもらったが、あれは藤田一朗という天才脚本家が書いた言葉なのです。
コロナ禍で大勢の友人たちと別れたけど、今回もまたとてもとても寂しく思います。
一緒に遊んだことはあまりないけど、僕は藤田くんが大好きでいつもシンパシーを感じていました。
心からのご冥福を祈ります。
天国であったらまた好きな映画の話でもしましょうね。
最後に藤田くんの書いてくれた「往生際の悪いロマンチスト」の出典である「ファー・イースト・ベイビーズ」のプレス用試写会の文章を載せておきます。藤田くん、ありがとう。
【ファーイースト・ベイビーズ」とのつきあい方について / フジタイチロウ】
→「FAB」は英語のスラングで「イカした」「カッコイイ」の意味だ。
「FEB」は英語の「FEBRURY」。二月の略称だけど、「FER EAST BABIES」は夏の映画だ。異常気象が日常になったトーキョーの夏。部屋を冷やすクーラーの排気熱で、気温が三度上昇するトーキョーの夏。
→「FER EAST BABIES」は口下手だ。
おばあちゃんと呼ばれる木彫りの人形を探し続ける少年も、ウクレレをかき鳴らしながらカッポする三人組のガソリン兄弟も、「君にとっておばあちゃんって、一体何なの?」とか「君たちがウクレレをかき鳴らすのは、反抗心の表現なのかな?」などと聞いたとたん、目を白黒させてしどろもどろになり、こちらのスキを見て逃げ去りそうだ。ここはひとつ、好き勝手にさせといて飽きるのを待つ、というのが大人の分別なのかもしれない。
→「FER EAST BABIES」はいいかげんだ。
旧友のナルトシくんが島にいる幻を見ただけで、徒党を組んで島に向かう。映画史上「幻を見たから」という理由だけで突っ走る人がいただろうか?
いたのである。
まったく、「行ってみたらナルトシくんは影も形もありませんでした。(おしまい)」で映画が終わったらどうするつもりだったのか?
「どうするつもりもな〜いもん。」と言いそうなところが憎たらしい。
→「FER EAST BABIES」はシビレやすい。
重機械の動きに破壊のカタルシスを感じ、ギターの響きに未だ見ぬ季節を感じ、遠く輝くビルの明かりに彼岸からの呼び声を感じる。
「うへへ、これがわかるオレって天才かもしんない。」と悦にいっても、
口下手だから孤独だ。口下手でいいかげんでシビレやすいとくれば、口より先に手が出るのは当然。目指した島にナルトシくんがいれば、「ナルトシィィ!」と叫んでぶん殴っちゃう。旧友と会えて嬉しかったのか、昔の恨みを思い出したのか、コツコツ標本を作るナルトシの隠居ぶりが気に入らなかったのか、理由は後からついてくる。ついてこなければまた殴る。猿以下のバカかもしれない。
だけど、バカを隠して生きていくのはムズカシイ。
→「FER EAST BABIES」は未来の悲しみを知っている。
言葉でも暴力でも、人と人はわかりあえない。
人とモノだって一つになれない。「わかりあえやしないってことだけを、わかりあうのさ」と誤解を楽しむふりをしても、一つになれない心は虚しく疲れていく。こんなことがいつまで続くのさ?そう思う心のすき間に、誰かの悲しみがダイレクトに飛び込んでくる。テレパシーだかデ・ジャ・ヴだか、言葉を超えた速さの悲しみを受け取ったら、立ち尽くすか泣くことぐらいしかできないだろう。
夕立のようにやってきた悲しみが降り止むのを待てば、また夏に還っていける。おばあちゃんを探し回るための、ウクレレをかき鳴らすための、コツコツ標本を作るための夏へ。
→「何青臭いこと書いてやがんでェ」と、我ながら思います。
しかし、こんなことを書かせる映画を作った安田潤司という人は、往生際の悪いロマンチストなのではないかと思うのであります。
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