今日は、下記の書籍からの抜粋とそれに対するコメントを書きおこしておきたいと思う。
待つことが苦手になった私たち 永田和宏
AIの発展は、この余韻を失わせる。よく長時間の音楽作品や映画などの動画作品が耐えられない「ファスト化」が言われているが、これは「思案」にも当てはまるのだとあらためて気づいた。AIの発展は科学にとって、プラスに働くのだろうか。どうだろうか。
効率化、限られた時間ですぐにやることが重視される時代。ジョブ型も進んでくると、だれか他人から複眼的な世界の見方を手に入れる機会を提供されることが少なくなり、いかにして個々人がその機会を作るかに依存することになる。これもポジティブなことといえるのか否か。サイエンスではなく、エンジニアリングであれば、突き詰めていくのによさそうだが、社会全体にはどんな変化が起こるだろうか。
本の読み方が改めて重要になる。読んだものをインプットするだけでなく、それを自分の中で反芻したり、浸透させるプロセスが重要になる。また、自分と向き合うことについても個人的には、過去に読んだ本を何度も何度も読む、そのたびに違う気づきがあることで経験しているのではないかと思う。
安全志向の殻を破る 大隅良典
なにかに夢中になってそれを探求するという経験がなければ、サイエンスのような失敗が連続で、何度も工夫しながら試行し、結果につながるように探求していくというプロセスを歩むことは難しい。私個人としては、これは知的活動に限らず、スポーツなどでもよいと思う。
このような夢中になる経験がないと、例えば仕事をしていないときに「仕事のことを考えないでおこう」といったことになるかもしれない。でも実際にはそんなことはなく、自分の好奇心に従っていれば何か思いつくことや試してみようということを思いつくことはあり得るのである。例えば、子供が野球やサッカーをしていて、こういう技を試してみようと何かの折に思うことはサッカーをしていない時間でもあったはずであり、それと同じことではないかと思う。そして、現代人は“働かされている”“働かなければならない”という外発的な動機から働いていることも多いと思うから、そうしたことでさえ働かされていると思うことになる。もっと純粋に「楽しむ」方法を模索するのが良いのではないかと思う
こうあるべき(そもそもそんなものも主観でしかないが)という価値観や、その所属コミュニティによる同質性や価値観に縛られてしまうと、優等生を求めてしまう自分に直面する。確かに自分も何かの課題に直面している可能性が高いので、何でもできる優秀な人にサポートを求めたくなる自分に抗えない。正解を求めて何かをアウトプットする場面もそう多くないはずなのに。結果に焦っていると、どうしても短距離で結果を出すために必要な要素を求めてしまう。おそらく研究者のコミュニティがWorkしているのは、自分がこの人がどういう人だということを認識し、その特性の人との対話や交流を純粋に楽しめる行動特性があるのではないかと思う。目的性がないと機会は生まれないが、目的セントリックな交流ばかりでもないという点を理解しておくべきだと感じる。実務者としては期限に縛られることから逃れることは困難を極めるが、少なくともそうした中でも予想外の成り行きを楽しむ姿勢を忘れず体現することは重要だろう
自分も全く持って例外ではないが、社会的な成功に囚われてしまう。これは、SNSの前と後でずいぶんと状況が変わったのではないかと感じる。自分にとって成功と思われる、あるいは自分があこがれていたり、いいなと思っていることを誰かがやっていて、その人との相対性でその人のようになろうと思ったら、権威ある組織や役職、成果があればなれるのであろうというのが非常に具体的にわかるからである。
しかし、現実にはこれらは一朝一夕にしてならない。その成果を上げるために準備し、その成果を上げたということが多いと思うが、残念ながら多くの場合にはその準備のプロセスというのが見えない。よって、結果にだけ囚われてしまうということが頻繁に起こるからである。
また、知的な探求を純粋に楽しむ余裕がないことを知っている。早く経済的に自立したいという思いや、家族を養っていかなければならないがそれほど余裕がないというのは学生に限らない。しかし、割合について言及することはできないが、知的な探求を心の底からしている人のほうが、自ら仕事を起こしていたり、研究をしていたり、業務終了後にMBAなどのリカレント教育に取り組んだりしながら、経済的にも安定的な立場になっているという場合も多いのではないだろうか。
「解く」ではなく「問う」を 永田和宏
「特に実験科学」と述べられているが、基本的に思考を巡らせる際には適切に比較することが大変に有効であり、社会科学でも例外ではないと思う。実験において社会実験では同じ状況を再現することがかなり難しいなどの違いがあるのかもしれないが、考え方は同じはずだと考える。
また、「論文」などを見ていると「問い」について触れることは容易だが、すでにこれは磨き上げられたものであって、どのように問うか、問いを磨き上げていったのかというプロセスを探求することが実に難しい。社会人大学院では、これを学生同士や先生方との対話を通じて行っているのだと思う。何度やってもまだまだ上達しているか、方法を会得しつつあるのかに悩む。「どのようの問うか」を思考するプロセスを探求していくことが実におもしろいと個人的には感じている。
これこそが自分が自身のある領域でこそ、だれにでも質問してもらうことの重要性を説明した金言だと思う。自分がよく勉強していたり、思考していたりする領域では、ついついそれを「知らない人はこれだから」という風になってしまうが、純粋な質問を3回投げてもらうことを意識したいところである。確かに、これは先生と学生に限らず、上司や関係者に自分のアイデアや専門領域の説明をしていても、どこかで回答に窮する場面があることで実感もある。
これもまた金言であるように思うが、実社会では限られた時間の中で早く業務をできるようにならなければならないということ、またこのような基礎的な考え方と向き合うことは意味が理解できなければ不毛なことのように思えるから、いいから早く具体的なスキルや知識、実践をさせてほしいということで、基礎訓練を欠いたまま実践を行い、そこで想定外のことに直面し、そこであたふたし精神的に消耗してしまう。失敗したことを思いの外気にしたりしてしまう。あまりいいマネージャーが周囲に居なければ、失敗の対策をどうするのかという本質的ではない改善を行わされ、さらによくわからない状態になってしまうことも多いだろう。研究者とは違って実務者ではサラリー分の働きをしなければならないので、こうした基礎訓練を業務の中だけで行っていくことは現実的ではないという側面もある。また、社会、ひいては多くの会社がこのような訓練を積む機会を提供してくれるわけではないから、やはりここでも自己責任論になってしまうことが現代の余裕のなさ、難しさを表している。(個人的には昔(自分が幼少期以前の時代)のほうがこうした訓練を会社や社会が提供してくれたのではないかと感じる)
科学を文化に 大隅良典
この科学的な行動規範はあらゆる仕事においても重要であろう。検証の過程で厳しい目にさらされたり、結論そのものが否定されたりすることは、精神的に厳しいものだと思う。しかし、それはメタ的に見れば、新たな知見が発見される礎となったといえる。そういう気持ちを純粋に持つことで、自分にとってのこだわりや執着に対して鈍感になり、自分が成果や価値を出すこと以上に、世の中でより大きな成果や価値が生まれる(それを誰かが作る)ことを喜びに思えるメンタリティを持つことが重要だとあらためて思う
言葉でサイエンス、サイエンスするといっていても、本質的に「サイエンス」であるかを問うてみてもいいかもしれない。
先行き不透明な時代の化学 大隅・永田
「サイエンスを文化に」を中心とした対話は非常に興味深く感じた。私は最初の学生時代(20歳前後)に大学で知の探究をしたという記憶はなく、単位をとって卒業しいい就職をするために学業に取り組んでいた。その中で卒業論文は個人的な興味から比較的色々な書籍などを調べながら執筆した。社会に出て話を聞けば、卒業論文を書いていなかったり、今のテクノロジーをうまく活用すれば、卒業するという目的のもとで卒業論文やレポートを書くことは容易であろうと思う。こうした中で、知の探究を行っている人のことを面白がるには、自分が何かを面白がってやったことがない限りなかなか難しいのではないかと思う。大学という「学校(研究機関ではなく)」という感覚が強い限り、若者がそれを大学で得る機会は難しいだろう。
また、社会人にとっても就業機会やキャリアアップとしてのリカレント教育として大学院に行きなおすというだけでも面白くはないだろう。それも知の探究の機会としては十分生かせないかもしれない。
何よりも「おもろいこと」を見つけて、それをどのように探求していくかというライフワークの中で、科学者や研究者がそれを生涯かけて実践している方法から学びながら自分のテーマを突き詰めていくということについてもっと慣れ親しむ必要がある。役に立たないからやらない、といっていたら多くのことはそうではないのだということにも同調する。日本人にとってサイエンスが文化になることは正直想像しにくい部分があるが、文化にまではならなくてもこうしたマインドを持つ人たちが脈々とその魂やムーブメントを引き継いでいく、あるいはそうしたコミュニティを盛り上げるといったことを心掛けたいと思った。
余談:しかし、役に立つボランティア(例えば復興・災害支援など)であってもやらない人も多いと思うから、実際には役に立つならやるという論理も強いわけではないと思う。