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角川新書「基礎科学者 真理を探究する生き方」の読後録

今日は、下記の書籍からの抜粋とそれに対するコメントを書きおこしておきたいと思う。


待つことが苦手になった私たち 永田和宏

私は、なにかを知るため、理解するために費やす時間が、その長さが大切だと思っている。知りたいことがあって、すぐにわからなければ、その疑問はずっと頭の片隅に残っている。こびりついている。わからない間、もしかしたらこうではないか、ああではないか、と想像力が働く。これが答えだと思って確かめるとまた違う。そうすると再び、こうではないか、ああではないか、と想像する・・・・・・このあくなきプロセスによってこそ、想像力が養われていく。
インターネットはすぐに答えを得られるので便利な反面、「なんでかな」「こうではないかな」と思って疑問を抱え込み、自らそれなりに考えてみるという時間を少なくしている。これでは想像力が働く場面がない。

基礎科学者 真理を探究する生き方

AIの発展は、この余韻を失わせる。よく長時間の音楽作品や映画などの動画作品が耐えられない「ファスト化」が言われているが、これは「思案」にも当てはまるのだとあらためて気づいた。AIの発展は科学にとって、プラスに働くのだろうか。どうだろうか。

物事をシステマティックにし、無駄を排して、効率化を極限まで進めているのが現代の社会だ。そんないまだからこそ改めて、目的に一直線にいかず、周囲を見回したり、寄り道をすることによる思いがけない出会いにも目を向けてほしい。(中略)
私たちのようなサイエンスにかかわっている人間は、自分の研究の対象だけにしか興味を示さない研究者も多い。誰も、自分の研究対象がいちばんおもしろいと思っているから研究を続けられるのであるが、研究では、どんなに優秀な研究者であっても、必ず行き詰まりというものを経験する。行き詰ったときに、どのようにその状況を打開して、袋小路から抜け出せるかは、複眼的な世界の見方を常に維持していること以外に方法がないのである。

基礎科学者 真理を探究する生き方

効率化、限られた時間ですぐにやることが重視される時代。ジョブ型も進んでくると、だれか他人から複眼的な世界の見方を手に入れる機会を提供されることが少なくなり、いかにして個々人がその機会を作るかに依存することになる。これもポジティブなことといえるのか否か。サイエンスではなく、エンジニアリングであれば、突き詰めていくのによさそうだが、社会全体にはどんな変化が起こるだろうか。

Ø以前に出版した『知の体力』(新潮新書)でも述べたことだが、本を読むということのいちばんの意味は、本に書かれている情報を得るということではないと私は考えている。本を読んで、新しいことを知る。これは知った内容に意味があるのではなくて、これまではこんなことも知らなかったのかという発見が大切なのである。「こんなことも知らなかった自分を知る、これが本を読むことの最大の意味だ」(『知の体力』)

基礎科学者 真理を探究する生き方

本の読み方が改めて重要になる。読んだものをインプットするだけでなく、それを自分の中で反芻したり、浸透させるプロセスが重要になる。また、自分と向き合うことについても個人的には、過去に読んだ本を何度も何度も読む、そのたびに違う気づきがあることで経験しているのではないかと思う。

安全志向の殻を破る 大隅良典

学生、大学院生時代に、自分で得られた結果に思わず興奮し、これをやらなければ、あれもやりたいと思うことが次々に浮かんで、寝る間も惜しいと思えるような経験押してほしい。こうした経験を通じて、研究はおもしろいと実感することが、その後の研究者としての長い道のりを支えてくれる大きな財産になると思うからである

基礎科学者 真理を探究する生き方

なにかに夢中になってそれを探求するという経験がなければ、サイエンスのような失敗が連続で、何度も工夫しながら試行し、結果につながるように探求していくというプロセスを歩むことは難しい。私個人としては、これは知的活動に限らず、スポーツなどでもよいと思う。

このような夢中になる経験がないと、例えば仕事をしていないときに「仕事のことを考えないでおこう」といったことになるかもしれない。でも実際にはそんなことはなく、自分の好奇心に従っていれば何か思いつくことや試してみようということを思いつくことはあり得るのである。例えば、子供が野球やサッカーをしていて、こういう技を試してみようと何かの折に思うことはサッカーをしていない時間でもあったはずであり、それと同じことではないかと思う。そして、現代人は“働かされている”“働かなければならない”という外発的な動機から働いていることも多いと思うから、そうしたことでさえ働かされていると思うことになる。もっと純粋に「楽しむ」方法を模索するのが良いのではないかと思う

科学者に必要な要素はなんだろうか。科学の世界では、平均点は大きな意味を持たない。科学者は日本の学校教育が目指してきたようないわゆる成績優秀なエリートが集まればいいわけではない。私は、科学者はある意味で変わり者でいいのだと思っている。
少し前に朝日新聞のコラムが鷲田清一氏が、サントリーのチーフブレンダーを長年務めてこられた輿水精一氏の言葉を紹介している記事が目についた(2020年12月13日)。
「ちょっと変わったヤツが必要なんですよ。優等生ばかりを集めていてもいい酒になりません」
ブレンドウイスキーはいろいろな原酒を混ぜて造る。そのとき「欠点のない」原酒ばかり集めて造っても「線が細い」ものにしかならないが、変わり者が混じることで初めて、ハッとするいいお酒が出来るというのだ。研究者の世界と同じだと思わず頷いてしまった。(中略)
研究者の集団には様々な人がいて、それぞれが役割を持っている。直感的に物事を捉えることに長けた人、論理的に考えることなしには前に進めない人、実験をすることがなによりも好きな人、実験を何度も繰り返さないと答えが出せない人、不思議と一回で見事な結果を出す人、たくさんの論文を正確に読みこなす生き字引のような人、議論好きでいろいろな疑問を発する人、的確な疑問、質問を投げかけるひとなどなど、それぞれ得意なものと個性がある。(中略)
議論というと違った意見を戦わせ、どちらが正しいかを判断するといったイメージがあるが、もっとも本質的なことは、議論の過程でそれまで見えなかった新しい方向が見えることにあると思う。議論の楽しさは、思いもつかなかったあたら立強い展開があるときだ。その点では、違った見方や考え方をする人と議論する機会を持つことが大切なのだろう。

基礎科学者 真理を探究する生き方

こうあるべき(そもそもそんなものも主観でしかないが)という価値観や、その所属コミュニティによる同質性や価値観に縛られてしまうと、優等生を求めてしまう自分に直面する。確かに自分も何かの課題に直面している可能性が高いので、何でもできる優秀な人にサポートを求めたくなる自分に抗えない。正解を求めて何かをアウトプットする場面もそう多くないはずなのに。結果に焦っていると、どうしても短距離で結果を出すために必要な要素を求めてしまう。おそらく研究者のコミュニティがWorkしているのは、自分がこの人がどういう人だということを認識し、その特性の人との対話や交流を純粋に楽しめる行動特性があるのではないかと思う。目的性がないと機会は生まれないが、目的セントリックな交流ばかりでもないという点を理解しておくべきだと感じる。実務者としては期限に縛られることから逃れることは困難を極めるが、少なくともそうした中でも予想外の成り行きを楽しむ姿勢を忘れず体現することは重要だろう

私が大学で接する学生たちに関して言えば、安全志向が強く、保守的だとしばしば感じる。
周囲の流行に惑わされずに、自分で面白いことを見つけてやっていくことは、科学の本質だと思うのだが、日本ではオリジナリティを大切にする文化が乏しく、社会の余裕のなさもあって、学生の安全志向が強まっている。これは決して、若者たちに責任を押し付けてはいけない。
ある先生から聞いたのは、学生がテーマを決められないという話だ。「これ、論文になりますか」「『Nature』のネタになりますか」と聞いてくるという。

自分も全く持って例外ではないが、社会的な成功に囚われてしまう。これは、SNSの前と後でずいぶんと状況が変わったのではないかと感じる。自分にとって成功と思われる、あるいは自分があこがれていたり、いいなと思っていることを誰かがやっていて、その人との相対性でその人のようになろうと思ったら、権威ある組織や役職、成果があればなれるのであろうというのが非常に具体的にわかるからである。

しかし、現実にはこれらは一朝一夕にしてならない。その成果を上げるために準備し、その成果を上げたということが多いと思うが、残念ながら多くの場合にはその準備のプロセスというのが見えない。よって、結果にだけ囚われてしまうということが頻繁に起こるからである。

また、知的な探求を純粋に楽しむ余裕がないことを知っている。早く経済的に自立したいという思いや、家族を養っていかなければならないがそれほど余裕がないというのは学生に限らない。しかし、割合について言及することはできないが、知的な探求を心の底からしている人のほうが、自ら仕事を起こしていたり、研究をしていたり、業務終了後にMBAなどのリカレント教育に取り組んだりしながら、経済的にも安定的な立場になっているという場合も多いのではないだろうか。

「解く」ではなく「問う」を 永田和宏

「なぜなのか」「本当なのか」と問わなければ、自然は決して答えを返してはくれないが、「どのように問うか」「いかに問えるか」がサイエンスの世界では極めて大切である。自然が答えを返しやすいように問いを発してやらなければならない。研究の現場では、この「どのように問うか」が、実は研究能力のかなりの部分を左右すると私は考えている。
歳エヌは、特に実験科学は、基本、比較の化学という側面が強い。条件を同じにして、一つだけ条件を変えた要素を導入し、その導入によって結果がどのように変化するかを観察して、その一つだけ変えられた要素の役割、意味を明らかにしようとするのである。その時、何と比較するかがとても大切になってくる

基礎科学者 真理を探究する生き方

「特に実験科学」と述べられているが、基本的に思考を巡らせる際には適切に比較することが大変に有効であり、社会科学でも例外ではないと思う。実験において社会実験では同じ状況を再現することがかなり難しいなどの違いがあるのかもしれないが、考え方は同じはずだと考える。

また、「論文」などを見ていると「問い」について触れることは容易だが、すでにこれは磨き上げられたものであって、どのように問うか、問いを磨き上げていったのかというプロセスを探求することが実に難しい。社会人大学院では、これを学生同士や先生方との対話を通じて行っているのだと思う。何度やってもまだまだ上達しているか、方法を会得しつつあるのかに悩む。「どのようの問うか」を思考するプロセスを探求していくことが実におもしろいと個人的には感じている。

元同僚で、現在も私のいるJT生命誌研究館に研究ディレクターとして来ていただいている、分子生物学者の吉田賢右さんに、「どんな教師でも3回質問すれば答えに窮する」という名言がある。学生が質問すると先生が答える、それに対してもう一度学生が質問する。これを3度繰り返すと、どんなに偉い先生でも自身では回答できない領域に踏み込んでしまうというのだ

基礎科学者 真理を探究する生き方

これこそが自分が自身のある領域でこそ、だれにでも質問してもらうことの重要性を説明した金言だと思う。自分がよく勉強していたり、思考していたりする領域では、ついついそれを「知らない人はこれだから」という風になってしまうが、純粋な質問を3回投げてもらうことを意識したいところである。確かに、これは先生と学生に限らず、上司や関係者に自分のアイデアや専門領域の説明をしていても、どこかで回答に窮する場面があることで実感もある。

将来研究者として立ちたいと思っている学生に、まず教えるべきは、科学的思考とはどのようなものなのかということである。先に述べたような、比較のためのコントロール(対照)をどのようにとるのかということも実践的には重要であろうし、それよりも、どのように「仮説」を立て、それを「検証」するには、どのような実験をすればよいかのデザインの方法、さらに結果をどのように解釈し、反証を考えるか。そのような科学的思考の基本に接したこともない状態での専門知識の詰込みは、百害あって一利なしと言い切っていいだろう。
そんな基礎訓練を欠いた「専門家」は、様々な場面で想定外の出来事に出会ったとき、どう対処すべきかという訓練が出来ていない。自らの専門知識で対処できない事態に遭遇した時、唯一頼りになるのは、科学的に考えるとはどういうことかという基本的な姿勢と、自らが持っているほか分野を含めた雑多な知識の総動員である。一分野の知識しか身につけていない人間では、想定外の出来事への対応に限界がある。引き出しを豊富に持っていることが重要であり、その引き出しの多さが、想像力及び創造力を呼び出すのである。

基礎科学者 真理を探究する生き方

これもまた金言であるように思うが、実社会では限られた時間の中で早く業務をできるようにならなければならないということ、またこのような基礎的な考え方と向き合うことは意味が理解できなければ不毛なことのように思えるから、いいから早く具体的なスキルや知識、実践をさせてほしいということで、基礎訓練を欠いたまま実践を行い、そこで想定外のことに直面し、そこであたふたし精神的に消耗してしまう。失敗したことを思いの外気にしたりしてしまう。あまりいいマネージャーが周囲に居なければ、失敗の対策をどうするのかという本質的ではない改善を行わされ、さらによくわからない状態になってしまうことも多いだろう。研究者とは違って実務者ではサラリー分の働きをしなければならないので、こうした基礎訓練を業務の中だけで行っていくことは現実的ではないという側面もある。また、社会、ひいては多くの会社がこのような訓練を積む機会を提供してくれるわけではないから、やはりここでも自己責任論になってしまうことが現代の余裕のなさ、難しさを表している。(個人的には昔(自分が幼少期以前の時代)のほうがこうした訓練を会社や社会が提供してくれたのではないかと感じる)

科学を文化に 大隅良典

科学の世界で最も大切なことは、検証する過程があることだ。得られた結果(データ)をもとに一つの結論を出す。その結論は大きな問題であればあるほど、多くの人によってすぐに検証されることで定説となる。間違っていれば修正され、ある時にはその結論そのものが否定される

基礎科学者 真理を探究する生き方

この科学的な行動規範はあらゆる仕事においても重要であろう。検証の過程で厳しい目にさらされたり、結論そのものが否定されたりすることは、精神的に厳しいものだと思う。しかし、それはメタ的に見れば、新たな知見が発見される礎となったといえる。そういう気持ちを純粋に持つことで、自分にとってのこだわりや執着に対して鈍感になり、自分が成果や価値を出すこと以上に、世の中でより大きな成果や価値が生まれる(それを誰かが作る)ことを喜びに思えるメンタリティを持つことが重要だとあらためて思う

長らく日本では、科学と技術は一つのものとしてとらえられてきて、「科学技術」という言葉で語られてきた。科学は技術のための基礎という考え方が定着している。
しかし科学(サイエンス)は、技術(テクノロジー)とは明らかに違った概念である。科学は「発見」という言葉で語られる、自然の持つ構造や原理・法則性に関する人類の蓄積してきた知の体系である。したがって科学は未知の課題に対する予見性を持つ。一方、技術は、人類の福祉や利便性に貢献する人工物の創造に関する知識の体系であり、「発明」という言葉で表される。科学による値は人類に共有される性格を持つのに対して、技術は発明者に利権が生じる。ニュートンの古典力学の体系やアインシュタインの相対性理論が前者の例であり、蒸気機関、コンピュータなどが後者に属する

基礎科学者 真理を探究する生き方

言葉でサイエンス、サイエンスするといっていても、本質的に「サイエンス」であるかを問うてみてもいいかもしれない。

先行き不透明な時代の化学 大隅・永田

「サイエンスを文化に」とわざわざ主張しないといけない理由の一つは、日本で科学と技術が切り離されていない状態にあるからです。日本では、科学=技術、と捉えられている感もあるので、サイエンスは「役に立つ」ことをもって評価される傾向が圧倒的に強いのです。そういう傾向は「楽しむものとしてのサイエンス」というスタンスとはずいぶん違った性質、構造を持っています。「役に立つからサイエンスは大事なのだ」と科学者自身がいうかどうかは、非常に大きな問題です(中略)
突き詰めるなら、「役に立たないから文化なのです」と私は言いたいですね(中略)
ここで改めて、基礎科学とは何かをはっきりさせたいと思います。「役に立つ」という発想から離れ、知的好奇心から出てくるものが基礎科学だと思います。
「宇宙の果てはどうなっているのか」「物質の根源は何か、原子の構造はどこまで分けられるのか」「声明はどうやって連続性を保っているのか」といった問いは、「役に立つ」という動機からは生まれません。しかし、それら一つ一つの問いに対する答えは、知の体系として人類に貢献をしています(中略)
別の言い方をすると、科学者以外の人たちも科学者の仕事を一緒におもしろがってほしいですね(中略)
「文化に」ということをものすごくわかりやすく言えば、永田さんがよく言う話がありますよね。
陸上競技の男子100メートル走で日本人選手が10秒を切ると、トップニュースになりますよね。でもこれが何の役に立つかと言えば、何の役にも立ちません。阪神を応援していて阪神が勝ったらうれしい。それを何が嬉しいのかといって、その「なぜ」を問う人はいないでしょう。スポーツは文化として根付いているから、誰もそんなことは論じません

基礎科学者 真理を探究する生き方

「サイエンスを文化に」を中心とした対話は非常に興味深く感じた。私は最初の学生時代(20歳前後)に大学で知の探究をしたという記憶はなく、単位をとって卒業しいい就職をするために学業に取り組んでいた。その中で卒業論文は個人的な興味から比較的色々な書籍などを調べながら執筆した。社会に出て話を聞けば、卒業論文を書いていなかったり、今のテクノロジーをうまく活用すれば、卒業するという目的のもとで卒業論文やレポートを書くことは容易であろうと思う。こうした中で、知の探究を行っている人のことを面白がるには、自分が何かを面白がってやったことがない限りなかなか難しいのではないかと思う。大学という「学校(研究機関ではなく)」という感覚が強い限り、若者がそれを大学で得る機会は難しいだろう。

また、社会人にとっても就業機会やキャリアアップとしてのリカレント教育として大学院に行きなおすというだけでも面白くはないだろう。それも知の探究の機会としては十分生かせないかもしれない。

何よりも「おもろいこと」を見つけて、それをどのように探求していくかというライフワークの中で、科学者や研究者がそれを生涯かけて実践している方法から学びながら自分のテーマを突き詰めていくということについてもっと慣れ親しむ必要がある。役に立たないからやらない、といっていたら多くのことはそうではないのだということにも同調する。日本人にとってサイエンスが文化になることは正直想像しにくい部分があるが、文化にまではならなくてもこうしたマインドを持つ人たちが脈々とその魂やムーブメントを引き継いでいく、あるいはそうしたコミュニティを盛り上げるといったことを心掛けたいと思った。

余談:しかし、役に立つボランティア(例えば復興・災害支援など)であってもやらない人も多いと思うから、実際には役に立つならやるという論理も強いわけではないと思う。

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