デヴィッド・ボームの「ダイアローグ」を読む ― 第1章 コミュニケーションとは何か (1)

イントロダクションの記述によると、この章は1970年クリシュナムルティ財団の会報に掲載されたものらしい。

コミュニケーションの問題について述べられている冒頭の2つの段落を詳しく見てみよう。

●コミュニケーション手段の発達:
 世界中どこにいても、ほとんど瞬時に他の場所と連絡が取れる
 ラジオ・テレビ、飛行機、人工衛星、(インターネット、スマホ)*
                       *()内は筆者追記
●コミュニケーションの崩壊:
 異なる政治体制、経済事情、国家間/同じ国であっても、社会階級、経済状況、政治的信念の違い
 限られた集団内であっても、「ジェネレーション・ギャップ」、
 教育現場では、実生活に不向きな大量の情報を押しつけられていると感じる学生たち
 マスメディアの情報:雑学の寄せ集めか関連性のない断片、混乱や間違った情報によって有害の根源になりうる

●コミュニケーション問題の解決に取り組むグループ同士の対立とさらなる混乱
 → 欲求不満、好戦的で暴力的な方向へ向かう

デヴィッド・ボーム(2007) ,1 コミュニケーションとは,ダイアローグ,英治出版,p.36 を筆者が要約

50年以上たった今でも十分に通用する内容で、新鮮な輝きを放っている。人類は、少なくともこの50年、コミュニケーションにおいては進化していないようだ。
ある読書会で、この部分を共に読んだとき、リアルに70年代を若者として経験した方のお話が印象的だった。

自分らは正しい、相手はわかっていないので、わからせよう
相手を攻撃するコミュニケーションの取り方しかわからなかった。
教師や教授、「権力」に対して、反抗的なスタンスで関わることをかっこよく感じる時代だった。
いま思うと恥ずかしい限りだが・・・

2022/10/11 オンライン読書会にて


たまにテレビを見ると、国際問題、社会問題、政治的な問題などどのような分野においても、MCやコメンテーターによって語られる内容は、事実と推論・推測・判断を混在して発信されていることを感じる。
何が起きたのかを言葉にする段階で、意図や判断が入り込んでいることも少なくない。
こうした言説によって語られることは、仮説であって事実ではない。にもかかわらず、事実であるかのようにそれを前提に論を展開すると、誤った方向に進んでしまうことが起こる。

視聴側が、事実と推論・推測を切り分けながら観てみると、番組の意図が見えてきて、おもしろいかもしれない。

日常の私たちのコミュニケーションにおいても同じことが起きている。

最後まで読んでくださって、ありがとうございました\(^^)/ もしよろければシェア、感想などを教えていただけたら嬉しいです。 またぜひ読みにきてくださいね!