某柔術家の先生の炎上について、全ての人をを納得させる難しさ

私の尊敬している柔術家の先生がツイッターにとある動画を出したのがその動画の内容がどちらかといえばブラックユーモアよりで、その先生のファンであったりすればあぁ、先生が悪ノリしてネタ動画撮ったんだなぁと思う位なのだか、次の日にそのツイートを見たら炎上していたのである。
確かに動画だけを見てしまえば、DVをしている狂人という動画に見えてしまい不快感を示す人も出てくるとは思う。
私は現在35歳なのだがテレビても様々な炎上の流れという物を見てきたのだが、自分が子供の時に大好きだっためちゃイケでしりとり侍というコーナがあった。
これは凄くシンプルで三文字のしとりをして何度同じ言葉を言っても大丈夫で同じ言葉でループをしていて突然キラーパスを送ったりして相手にミスを誘うというシンプルだが子供も参加できる楽しい遊びである。ただこのゲームには芸人が参加しているのでとんでもない罰ゲームがあり間違えると侍が複数名突入してきて間違えた人をぶん殴るというような内容である。確かぶん殴られて骨折した芸人もいたような気がする。ただこれはエンタメとして凄く面白いなぁと子供ながらに思っていたのが、これが学校で流行った結果いじめに発展してこのコーナーそのものが消滅してしまった。
他には大食い、早食いという企画が昔とてつもないブームであり草薙剛が主演のフードファイターというドラマまで作られて「俺の胃袋は宇宙だ」というカッコいいセリフは今でも覚えている。
ただこれを小学校が真似をして学校で早食いをして喉に詰まらせて死んでしまったという事件から、放送不適切な番組として大食いの番組自体が消滅していってしまった。
ここで話を戻したいのが、じゃあこれって誰が悪いの?っていう話になる。子供が真似させるような企画を考えたテレビが悪いのか?それともそれを学校で行われていてそれ見ていた教師が注意しなかったからなのか?どちらも正しくもあり正しくも無いと私は思っている。
エンターテイメントとはある意味非日常を楽しむ物でありそれを見たりする事で楽しいと思うのが人として人生の楽しみではないだろうか?あれもだめ、これもダメ、これは不適切と物事を決めていったら残るのはありきたりな日常だったりつまらない物だけし残らないのではないのか?
もちろん差別だったり相手の人格を否定するような事は不快に感じてしまうのは分かるのだが別に内輪ネタで多少なりともフザケたりする程度だったらある程度寛容な姿勢を見せても良いのでは無いだろうか?
この動画なんかはその最たる例だと思うのだが、これだって黒人のアイクが自虐的に自分が黒い事をイジっているのだがこれを白人がやったらとんでもない差別問題に発展してしまうと思う。ただこれは黒人がやっているから上手くエンタメとして消化されているのであってこれも人によっては不快感を示してしまうと思う。皆が納得できるエンタメっていう物はこの世に存在しなく誰かがその事に文句を言ったり、私こそは正しい正義を振りかざすのだという人もたくさんいると思うのだが、自分が不快だったら見なければ良いしなんならブロックしてしまえばもう二度とその人が自分のツイッターにも表示されなくなるのだから不快だったら自分の目に映らない努力をすれば良いのではないだろうか?わざわざ不快な物を見てこれは問題だ!こんな動画は不適切だ!というのは当たり屋とあまり変わらないと思っている。ツイッターなんて匿名のsnsで所詮便所の落書きで誰もが好きな事を書いてもいいと思っているしわざわざ人の便所の落書きにレスを返す意味は本当にあるのだろうか?自分はツイッターで頭悪いツイートだなとか見てて不快だと思ったら即ブロックして視界に入れないようにしている嫌なら見ない努力をすれば良いんだし全部を規制していったら残るのは中身のないスッカスカのつまらない物だけになるのではないだろうか?

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