「資本主義の非物質的転回」について

 これは、諸富徹さんの近著「資本主義の新しい型」(岩波書店2020年)のキーワードです。
 現在の資本主義が、日本だけでみても、世界的視野でみても変調をきたしていることには大方の合意があります。「資本主義はどこに向かうのか」は、共通の問なのです。岩波という名門書店から世に問うのだから、「そうか、なるほど」と思わせる中味があるのだろうと思って読んでみました。
資本主義が根本的に変化しているという基本認識が冒頭に挙げられています。でも、根本的とは何でしょう。読み進むうちに「非物質的」という経済学ではこれまで使われたことのない言葉に出会います。
 私のように経済学の基底は唯物論だと信じていたものには、非物質という言葉が衝撃的なのです。そして、多少の疑問もありました。
 非物質化とは、投資と消費の両部面に現れている。投資面、企業の投資が、工場・機械という物質から、無形資産という言葉に象徴されるコトに移っている。例えば、知識に。知識はヒトから離れてありえないので、要は人材への投資のことらしい。
 アメリカが近年、順調に成長し、日本だけが乗り遅れたのは、知識への投資が遅れたから。どうしてそうなったかといえば、資本主義が非物質化しているという認識を持っていなかったから、だそうです。
Y=F(K・L)
これはソローの経済成長の式ですが、Kは資本、Lは労働、に加えて、というよりLをH(人的資本)に置き換えてY=F(K・H)を示します。
 労働力LとHの人的資本がどう到達なのか判然としませんが、労働力というのは肉体労働イメージ、Hのほうは知的労働のようです。
 突然、肉体労働等という古いイメージが示され惑うのです。マルクスが『資本論』を書いたとき、イメージしたのは工場労働者だった。それはそうですが、高級労働(熟練労働)という概念を示し、これは単純労働の倍化した労働であるとしています。つまりH・知識労働などとわざわざ別立にしなくても、L×2、L×3とかの掛け算で済まされる。知識は、労働と資本の結びつき、それぞれの有効な機能のためにあるので、LやKと並列されるべきではないでしょう。
 知識社会とか知価社会とかの言葉に惑わされてしまう。人材が大事だから、教育が決定的というのは賛成。この点で日本がとんでもなく遅れたのは事実です。小・中学校では、かなりの割合で授業が成立していない。高校もある程度以下の大学では同じこと。時間とお金が無駄に使われ、スポイルされた生徒や学生は捨て置かれています。それこそ、将来、待っているのは肉体労働者というステータスです。
 消費の物質化というのも、イメージがわからず、新しい概念を伝えていない。私達が車を買うとき、エンジンの性能、ブレーキの力とともに、車体の色、デザインを気にし、様々な電機・電子系統のデバイスに関心を示すのは当然です。それらを非物質化とわざわざ言わなくてもサービス化という表現で充分でしょう。少し前ならソフト化ですね。若い人々が、給料とかの物的なものでなく、仕事の面白さや、やりがいに重点をおくようになったのは、私達の経済社会が発達し、物質的豊かさを実現し、その上で精神的な満足を求めにいっているひとつの証明でしょう。この場合でも、“非物質”は“物質”の上に乗っているのです。前者が後者と入れ替わってしまうようなことはないのです。
 世界の大企業、高収益企業の象徴がいわゆるGAFAであるのは事実です。彼らをみると昔の鉄鋼業や重化学工業の対極で、物的な設備から解放されていて身軽です。これが、収益の源泉になっているのは、わかります。利潤率を計算する分母は物的資本が少ない分、少ないからです。日本にこの分野のリーダー企業がなかったのは、その通りです。
 企業の資産がハードからソフトを主流に、企業の投資がそちらに向かうと必然的に脱炭素化するから環境によい。これは当然でしょう。しかし非物質化=環境というのはどうかな。違う話で結びつけているように見えます。
 資本主義は変質もしていなければ進化もしていない。変わったのは産業構造で、進化したのは技術です。利潤を目指してどこまでも突き進む、競争者を排して独占を志向する、労働者は搾取する、なるべく安い賃金を払う。どれも変わっていない。
 諸富徹さんの新しい資本主義像はみえず、したがって、その行く末もわかりませんでした。

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