道徳は暗記科目か?

先日、オモコロチャンネルの『小学校の「道徳の教科書」を大人になった今読んでみよう!』を見返していた。

小学校の「道徳の教科書」を大人になった今読んでみよう!

この動画では、道徳の教科書を読みながら実際のところそのお話の持つメッセージは正しいのか?という議論がなされていた。

私も小中学校の道徳の時間は、面倒くさいとか説教臭いとか思っていたし、なんなら突っ込みどころを探して授業最後の感想文の時間に皮肉を込めて指摘する大喜利の時間とさえとらえていた人間なのでこの動画も大変楽しく視聴できた。

さて、近年道徳の話をネット上でするとよく見かける文言がある。「道徳は暗記科目」。これはほとんどの場合、冗句として道徳性のなさを示すアイコン的な文章として書かれていると思う。つまり世間一般では道徳は暗記科目ではないとされているということである。


そもそも道徳とは

道徳が暗記科目かを考えるにはまず、道徳についてきちんと定義しなければならない。

ここではWikipediaはでは道徳を次のように説明している

道徳(どうとく)は、英: moralityの訳語に当てられたものである。漢語における「道徳」は、もともとは中国の古典を由来とする観念であり、「」と「」という2つの考えからなる。道とは、人が従うべきルールのことであり、徳とは、そのルールを守ることができる状態をいう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/道徳

また道徳教育についても示す。

道徳教育(どうとくきょういく)とは、道徳的な心情を育て、判断力・実践意欲を持たせるなど、道徳性を養う教育のことを日本では主にいう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/道徳教育

つまり学校で行われた道徳とはルールを守るための心と理性を育てる時間であるといえるだろう。

ルールの勉強

道徳がルールを守るための科目であると確認したわけだが、ルールを守るためにまず何より初めに必要なことは何だろうか。

ルールを知ることである。当然である。野球のルールを守るためにはそもそも野球のルールを誰かから教わるなりルールブックを読むなりしなければならない。

そして知るとはつまり覚えることであり暗記することだといえるのではないだろうか。つまり道徳の「道」はまず暗記から始まるといえるのである。

またルールの活用、つまり「徳」についてもおおよそ暗記的だといえるだろう。特に道徳の教科書に書いてあるようなことは「道」を知っていればおよそとるべき行動がわかるようなケースが多い。

ゴミは拾うべきだし、信号無視はするべきではない。人に嫌な思いをさせるべきじゃないし、法律違反なんてどうあってもするべきじゃない。

あるいは、わからなかったとしてもそれを理解し、今後規範とするために覚えるための時間が道徳の授業なのではないだろうか。

とはいえこれで道徳は暗記科目だとは言い切れないだろう。

「そのルールを理解するために心が大事なんだ」「現実の状況はそんなに単純じゃないからその場で考える必要がある。そのためには思考力が大事なんだ」

こんな反論が考えられるだろう。ここからはこれらの意見にさらに反論していこうと思う。

そもそも暗記科目とは

反論を始める前に前提を確認したい。「暗記科目」とは何だろうか。

暗記科目といえばいわゆる社会科を思い浮かべる人が多いだろう。実際、歴史や地理といった教科はかなりの部分を暗記することに費やすので典型的な暗記教科といえるだろう。しかしほかの教科も暗記科目と呼ばれることがある。

たとえば理科がそうだ。特に理科が得意な人は暗記科目としてとらえることが多いように思う。彼ら理屈を紐解けば、理科の授業で大事なのは公式とその使い方を覚えることである。つまり理科=暗記する科目である。ということになるだろう。

納得する・しないは置いておくとして、ここでは理科のような教科も暗記科目に含まれる場合があることを示しておきたい。

道徳=理科

さてここで理科という教科について考えたい。理科で行われることを分解するとおおよそ次になるように思う。

  • 自然を観察し、特徴を見つけ出す。

  • その特徴から一定の法則を見出す。

  • その法則を利用して問題を解く。

これらは実は道徳の授業でやっていることと同じではないだろうか。同じように道徳を分解するとこうなる。

  • 物語を読んで感想を感がえる。

  • 自分が思ったこと人が思ったことからルール=「道」を見出す。

  • ルールに従って行うべき行動を考え、実践する=「徳」

個別事象の観察、帰納的な帰結、演繹的な実践。この流れは道徳と理科で共通する流れだといえるだろう。理科で最初の法則に気づくために観察力が必要なように、道徳ではルールを理解するために精神性が大事なのである。

現実であればもっと複雑だということも、高校生で習うような物理化学は(なんなら地理や歴史も)問題に合わせた判断力が必要になってくるという事実と対応している。

そして理科が暗記科目だと呼ばれるならば、道徳が暗記科目と呼ばれたとしてもおかしくないはずである。

結局、理科も道徳も、小中学校で習う程度の単純化された状況の上では暗記科目なのだ。

道徳は暗記科目

このようにルールを知り実践することを目的とする道徳は、ルールを知るという意味においては明確に暗記科目だと思うし、行動の面においても状況や感情に左右されべきではないという立場に立つなら暗記的な側面があるだろう。

そしてルールを知りそこから行動規範を導くという行いは、理科の授業でやってきたこととかなり近いことをしており、また理科は暗記科目と考える人間も一定数いる。

つまり「道徳は暗記科目」はそうおかしな文章ではないと私は思う。

暗記以外で行動するやつ

あと道徳が行動規範であることを考えると、それをふらふらと変える人間って個人的にくそだと思う。特にキレのラインは一定であってくれ。頼むから。

それに道徳を暗記してはいけない社会って行動規範がころころ変わる社会ってことになってしまわないか?あまりにも最悪が過ぎる。でもSNS炎上のラインってわかんないから、やっぱ暗記科目じゃないかもしれない。

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