見出し画像

湯島の江知勝について

最終更新:2023/11/15

明治創業の『江知勝』は、菊池寛・川端康成・芥川龍之介など、多くの文豪が利用したと言われる牛鍋屋です。
この『江知勝』について調査中なのですが、調べたり、教えていただいてわかったことを記録しております。


なぜ江知勝?

明治時代は牛鍋ブームで、牛鍋屋もたくさんあったようです。今でも続いている老舗のすき焼き屋さんもあります。その中で、なぜ江知勝にこだわるのかといえば、ここが父方の祖父の実家で、本家になるからです。

とはいえそこまで深いお付き合いはなく、そこそこのお値段なので、家族で利用したのは記憶にある限り1回。
元気の良い仲居さんが「ほら、良い肉でしょう!!」と言いながら、綺麗な霜降りのお肉を見せてくれたのを覚えています。
※父や両祖父は会社の集まりなどで利用していたようです。

日本文化に興味を持ち、様々な日本文化に関わるようになって、改めて「江知勝」の重要性を感じ、遅ればせながら、1年に1回くらいは通おうと心に決めました。
その後、本家のはとこにあたる方と『長唄』を通じて繋がったりしながら、改めて『江知勝』の貴重さと同時に、古い建物や維持、老舗という重みを感じたところで、2020年1月末に閉店することを知りました。

現在跡地はマンションになってしまいましたが、記録を残したく、色々と調べております。

本郷の鳳明館に関わらせていただき、『文豪缶詰プラン』を開催するようになってから、改めて『江知勝』を調べてみようと思いました。
当初は「多くの文豪たちが利用した」と言われるものの、それ以上の情報がなく、「誰が利用したのか」を調べようとしただけなのですが、「湯島でなく、本郷にもあった?」と疑問を持ち、色々な方々に情報提供をいただきつつ、「おおお!?つまりはこういうことでは!?」「ここで描かれているのは江知勝でのシーンか!」等と謎解きのような感覚で新しい情報を得てきました。

少しずつ調べて、随時追記していきたいと思います。

江知勝について

新潟の米屋だった越後屋勝次郎が東京に出てきて牛鍋屋を開いた…と聞いています。越後屋から一文字とって、『越勝(えちかつ)』だったのを、江戸を知って勝つ、ということで『江知勝』となったとも聞いていますが、これも確実ではありません。「越後が勝つ」から「江戸が勝つ」に方向性を変えたかなと思いつつ、「江戸を知って勝つ」ということなら、それで「最終的に越後が江戸に勝つ」という意味で新潟愛だったのでは、と深読みしてしまいますが、たぶん、ただの当て字だと思います。
※鳳明館の女将さんから「他のことを調べていたら、江知勝の記事も出てきたわよ!」と教えていただき、その記事から詳しい内容がわかりました。

江戸時代後期、本郷菊坂本妙寺の門前で「越後屋」の名で米商を営んでいましたが、その米商が倒産。息子の勝治郎は駕籠屋を経て、江戸の肉屋の元締めに奉公し、肉の仕事を覚え、その店のお針子をしていたお丁と夫婦になり、「越勝」と屋号をつけ、本郷通りに小さな肉の小売店を開いたそうです。
幕末当時は肉屋は嫌われていましたが、明治維新で天皇が率先して牛肉を召し上がると爆発的に売れ出し、明治4年には座敷に上げて食べさせるようになり、明治15年には支店が3つもできる繁盛店となったそうです。

【補足】この記事を発見した時点では、3つの支店は『本郷通り』『本郷弓町』『湯島切通』と思っていましたが「そうなると本店と2つの支店と言うのでは?」と引っかかっておりました。その謎はのちに解けるわけですがそれは『神田錦町にもあった?』の項にて。

<参考:文京文化誌『四季本郷』1994年 本郷の老舗第五回「百二十年の暖簾 昔と今と―すき焼江知勝」>

補足
本妙寺は江戸の大半を焼いたと言われる『明暦の大火』の火元と言われた寺で、今は巣鴨にあります。本郷の本妙寺跡地には文京区の説明版があります。実は火元ではなかったそうなのですが、このあたりはまた別の機会に。

画像3
ぐつぐつ・・・

本郷の江知勝?湯島の江知勝?

江知勝について出てくる文学作品を見ていると「本郷の江知勝」という表記が多々あります。

久米は芥川のいたづらをみると、芥川が河童が馬に蹴とばされたところを畫くのを待つてて、どれと言ふなり芥川龍と書き、似てゐるだらうと言つてゐた。本郷の江知勝で三人が飯を食つた時のあそびである。

小穴隆一『二つの繪 芥川龍之介の囘想』

本郷へ行けば、大学生相手の、豊国、江知勝。

古川緑波『牛鍋からすき焼へ』

横光氏に初めて会つたのは小石川中富坂の菊池寛氏の家であつた。その日夕方、三人で家を出て本郷弓町の江知勝で牛鍋の御馳走になつたことを覚えてゐる。

『川端康成 横光利一集 解説』

本郷弓町から湯島に移転したのか、湯島の一帯が本郷弓町と呼ばれていたのか…ちょっとここらへんについては、まだ調べられていません。

創業当初から「湯島」にあったと思い込んでいたので、湯島のあたりも『本郷区』だったため、大きな括りで「本郷」と言っているのだなと理解していました。
ただ、川端康成が『本郷弓町』とハッキリと書いているので、さすがに「本郷弓町ではないがこれは…」とずっとモヤモヤしておりました。

『四季本郷』の情報によると「幕末に本郷通りに肉屋を開き、明治4年に牛鍋屋をやるようになり、繁盛したので明治15年に本郷と湯島切通しに支店を出した」のかもしれません。まだここは憶測ではありますが。
本郷にあったことは確定になりました。湯島の方が支店として明治15年に建てられたようです。

家にある江知勝の絵には「明治15年より昭和廿年(20年)3月まで湯島切通しにありし江知勝」とあり、「明治4年創業じゃなかったっけ?」とこれもまた疑問でしたので、湯島が支店として明治15年に建てられたとすれば納得!

そして昭和20年3月といえば…、東京大空襲ですね。絵の建物は空襲で焼け、その後昭和27年に再建された、ということのようです。

明治15年より昭和廿年(20年)3月まで湯島切通しにありし江知勝

本郷弓町の江知勝は、春日通りの拡幅工事で撤退することになったのか、大空襲なのかはまだわかりません。
春日通りの拡幅工事は昭和45.6年あたりだそうで、湯島の江知勝が昭和27年に建てられたとすると、拡幅工事のだいぶ前に本店を湯島に移していたのかもしれません。
※本郷の江知勝の在りし日の姿はかなりご年配の方でないと見ていないようです。興味を持った頃には話を聞ける人がいなくなってしまう…。こういう話は聞けるときはどんどん聞いていった方が良いですね!

江知勝と文豪

文豪との関係を少し調べただけで「菊池寛が横光利一と川端康成を引き合わせたあと、江知勝で牛鍋を奢った」だの「久米正雄が菊池寛、芥川龍之介と江知勝に行くと、小島政二郎と井汲清治が来ていた」だののエピソードが次々と出てきます。
またさきほどご紹介した通り、「芥川龍之介が書いた馬の絵に、久米正雄がその筆を奪って河童を書き加えて、その筆をまた奪った芥川が書を書き加え…等と遊んだのは江知勝」等というエピソードも。

そして本郷に住んでいた徳田秋声の随筆によると「本郷界隈には江知勝という店があり、豊国(同じく湯島にあった牛鍋屋)が大学や高等学校の学生連の縄張りだとすると、これは済生学舎(本郷に創設された野口英世等も学んだ西洋近代医学の私立医学校)の学生たちの縄張りだった」とのこと。「江知勝は帝大の金持ち組が行くところだ」とも書いていた気がするのですがこれについては出典が見つからず…。
ちなみに豊国(豊国楼?)は夏目漱石の行きつけです。

江知勝は千駄木に借家を持っていて、それを尾崎放哉とその仲間たちに安く貸していたようですが、尾崎放哉たちは、家賃を払うために江知勝に行き、そのままお座敷で遊びまくり、結局お金がなくなる…という非常に文豪らしいエピソードも。

画像3

神田錦町にもあった?

「神保町のフリーペーパーで昔の地図が掲載されており、そこに『江知勝』の名前がある」と教えてもらい、まさか…と思ったのですが、不思議なもので「神田の江知勝があった可能性」を念頭にいれて調べると、今まで引っかかってこなかった新しい情報が引っ張り出されてくるのが面白いです。

中川、いろは、江知勝、ときわと、さしも多かった牛肉屋も、今文一軒になったようだが、牛鍋一人前二十銭が、壱円以上にも向上しては、もはや学生大衆のものではない。

楠山正雄『神田界隈』

そして悲しい記事ですが、初の感電死と報じられているこちら。
※「初の感電死」というよりも「新聞に報じられた一番最初の事例」のようです

十月六日午後五時十分神田錦町二丁目三番地牛肉店江知勝方の女中おはな(十五)が肉切場より電燈を入口の下足の處へ移さんと電燈紐に手を掛くると同時にアット一聲叫びし儘其の場に打倒れて――

ウィキソース/最初の高圧感電死についての雑誌『電氣之友』の記事

「神田錦町二丁目三番地牛肉店江知勝方」と記載があります。

資料を探してくださっていた本家の方も「一部資料が見つかった」とのことで、確認したところ、明治15年頃に神田錦町に支店があったと記載があったようで、神田錦町に支店があったのは確定しました。

引き続き調べていきたいと思います。

参考書籍・WEBサイト

保昌正夫著『横光利一菊池寛・川端康成の周辺』
瓜生鉄二著『流浪の詩人 尾崎放哉』
由良哲次著『横光利一の文学と生涯: 没後三十年記念集』
『文藝春秋』第 57 巻
『昭和文学全集』第 14 巻
『徳田秋聲全集 21』
小穴隆一著『二つの繪 芥川龍之介の囘想』
小穴隆一編『芥川龍之介遺墨』
『川端康成 横光利一集』
『ぶんきょう図書館だより 第116号』
文京文化誌『四季本郷』1994年
楠山正雄『神田界隈』
ウィキソース/最初の高圧感電死についての雑誌『電氣之友』の記事
『神保町が好きだ!』17号

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?