22/08/30 【感想】ダブル・ダブル〔新訳版〕

エラリイ・クイーンの隠れた良作『ダブル・ダブル』、その新訳版を読みました。

『十日間の不思議』の新訳を出すなら是非その次の『ダブル・ダブル』も、ということはこの日記でも再三言ってきたのですが、それが実際に叶ったことには大きな驚きと喜びがありました。
というのも、これまでハヤカワで新訳が刊行された『災厄の町』『九尾の猫』『フォックス家の殺人』『十日間の不思議』を比べると『ダブル・ダブル』はちょっと世間的評価が落ちるんですよね。

例えば週刊文春による「東西ミステリーベスト100」海外編の1985年版で『災厄の町』が53位、2012年版では『九尾の猫』が78位・『災厄の町』が90位に入っています。この2作はハヤカワの越前新訳シリーズでも最初の2作になりました。
また早川書房編集部による『海外ミステリ・ベスト100』2000年版で『九尾の猫』は45位、『災厄の町』は51位、『十日間の不思議』は85位に入っています。
エラリー・クイーン・ファンクラブによる作品の人気投票でも新訳5タイトルで『ダブル・ダブル』は最も低い20位につけています。

ただ個人的に『災厄の町』~『フォックス家の殺人』~『十日間の不思議』~『九尾の猫』と続く一連のサーガは『ダブル・ダブル』がエピローグになってきれいに収まる印象があるんですよね。出版側の方も同じように思われたのかはわかりませんが、今回この『ダブル・ダブル』が新訳版で出たことには格別の喜びがあります。

『十日間の不思議』刊行記念イベントで新訳を担当されている越前敏弥氏が「『ダブル・ダブル』が好き」「(ヒロインの)リーマ・アンダースン萌え」といったことを言ってくださっていて、「(訳せたら)もう思い残すことはない」とまでおっしゃっているんですね。
この『十日間の不思議』もだいぶ売れ行きがよかったようですし、そうした色々な"愛"によって今回の新訳が実現したのではないかと思っています。


さて、今回新訳版で再読して改めて気づいたんですが、この『ダブル・ダブル』はこれまでのライツヴィル・シリーズの総集編のような性格を持っているんですね。

『フォックス家の殺人』のように物語開始時点でスタティックな死があり、ドッド医師宅に滞在しながら不気味な謎を抱えて事件の影が歩み寄るのを感じるパートは『災厄の町』を思わせ、そして奇妙な暗合で事象を繋げようとする名探偵の試みや明かされる真相は『十日間の不思議』の変奏です。

しかしこれらの事件をエラリイは既に乗り越えています。
この過程を"昇華"するかのようなドラマはやはり『ダブル・ダブル』ならではの良さだなあと。

また特に今回面白くなっていたのが『フォックス家の殺人〔新訳版〕』のときと同様に聞き込みなどを行ういわゆる「推理小説の文章」の部分。
最初にリーマとライツヴィルに行ってからの、ライツヴィル内を巡って聞き込みをするシーンが非常に味わい深いものになっています。
考えてみると『災厄の町』は最初からライト家の中で事件が進行し『フォックス家』は過去の事件、『十日間の不思議』はそもそもずっと事件が起きないので、ライツヴィルを巡って捜査ってあまりしてきてないんですよね。これまで作品を重ねて作り込まれてきたライツヴィルという町で探偵エラリイが聞き込みをしてまわるというだけで面白いです。

そしてもうひとつ注目されるのがクイーン作品最強の萌えキャラことリーマ・アンダーソンがどうなっているか。
解説では翻訳の越前氏の文として、

自分にとってのリーマは、クイーンだけでなく、全海外ミステリ中最高のヒロインでしたから、訳していて浮き足立たないように(笑)心がけていました。

エラリイ・クイーン(越前敏弥=訳)『ダブル・ダブル〔新訳版〕』
(太字は記事執筆者による)

と書かれていますが、読んでみると確かに地に足の付いたヒロインとして過度に萌えに走ることなく描写されていたと思います。

ミステリの女性キャラの魅力のひとつに「文語がかった翻訳調でしゃべる」ことがあると思っています。これは特に狙ったわけではなく、海外作品の少し古い翻訳によって自然発生的に生まれていたものだったのですが、この特性がリーマ・アンダーソンというキャラ造形にめちゃくちゃ噛み合っていました。
ところが今回新訳版で自然な訳を得たことである種の神秘性が薄れ、古典ミステリの萌えキャラから地に足の付いたヒロインとしてアップデートされたように思います。

他にも旧訳だとあまりにあけすけだったハードボイルドへの当てこすりが緩和されていたりなど「上品」な新訳になっていましたね。

あらすじの下はネタバレ感想です。

エラリイに匿名の手紙が届く。そこには最近ライツヴィルで起きた事件を記した新聞記事――“町の隠者”の病死、富豪の自殺、“町の物乞い”の失踪――の切り抜きが。そして、父親の失踪の真相を探ってほしいという妖精のように魅力的な娘・リーマに導かれ、エラリイは四度ライツヴィルを訪れる。そこで待ち受けていたのは、さらなる不審死の連続だった……本格ミステリの巨匠、円熟期の傑作が新訳で登場。

ハヤカワ・オンライン内作品ページより

ここからネタバレ


北村薫が「見立て殺人の極北」と評したという本作品ですが、まさに見立て殺人テーマでやれることをとことんやりつくしたような作品になっています。

事件の真相としては「偶然発生した2つの死を見立て殺人へ偽装するために3件目の殺人を行い、見立て殺人と推理させるために探偵を呼び、見立て殺人だという推理に怯えて遺言状を書いた医師を見立てに従って殺害した。するとその後必要に迫られて殺した相手までも偶然童謡の歌詞通りだった」というもの。
エラリイは"チーフ"で、それを知っているのはリーマだけでしたが、偶然なのでそんなことは全く関係なかったという真相。

  • 事件性のない死が童謡の歌詞に見立てられる(偶然による死の、犯人による見立て)

  • 童謡の歌詞に見立てて殺人がおこなわれる(犯人による死の、犯人による見立て)

  • 殺人が偶然童謡の歌詞通りになる(犯人による死の、偶然による見立て)

という童謡殺人三段重、見立て殺人コンプリートセットになっているのですね。

そして犯人が処刑されれば童謡のラストに見立てられるという締めくくりなど、まさにエラリイ・クイーン式『そして誰もいなくなった』の面目躍如といったところでしょう。

見立て殺人は「なぜわざわざ童謡の歌詞の通りに殺さなきゃいけなかったのか」という理由の部分に不満が残る、なんてことがはやみねかおるの『機巧館のかぞえ唄』の中で岩崎亜依による傑作見立て殺人「でんでん殺人事件」と共に語られていたのを覚えているのですが、本作における理由は「怖がらせるため」。恐らく最もメジャーな見立ての目的でしょう。

ただ、殺すだけじゃ足りないほど憎らしい相手をもっと苦しめるためにめちゃくちゃ怖がらせるといった目的でなく「怖がらせることで遺言状を書かせる」という「あやつり」が目的なのがなんともクイーン的。そして見立て殺人を指摘させるために探偵エラリイを呼んでくる、つまり「見立て殺人で怖がらせるために探偵が使われる」という「あやつり」も非常にクイーン的。

今回もエラリイは推理を押し付けられて殺人の片棒を担がされてるわけですが、『九尾の猫』を経たからかそのことを反省するでもなく妙に爽やかです。


クイーンは執筆中だったプロットがアガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』にかぶっていたため没にしたことがあるそうで、本作はそれを再利用したのではと言われているそうです。
元々のプロットがどの程度『そして誰もいなくなった』に近かったのかは分かりませんが、『そし誰』は「孤島に集められて歌詞の通りに殺されていく」というパターンの発明そのものの偉大さはもちろんのこと、集められた人物全員の主観視点で語られるという技巧によって傑作になっているため、絶対にアガサ・クリスティーが書かなくてはならない作品でした。エラリイ・クイーンには絶対に『そし誰』は書けなかったでしょう。

しかしそれと同様に、『ダブル・ダブル』は円熟期のエラリイ・クイーンしか絶対に書けない作品として完成しました。
(本作が見立て殺人コンプリートセットであるがゆえに後の作品がかぶってしまうのはしょうがないことではあるのですが、本作以降に書かれたホで始める某作品はさほど目新しくないように思います)

これはまさに推理小説の神による粋な配剤といえるのではないかと思います。


ところで、本作を旧訳で初読したときにはハッピーエンドのはずなのになんとも言えない切ない気持ちになりました。あえて言語化するなら「エラリイはこのあともうライツヴィルへは来ないのだろうな」となんとなく感じてしまったような(割とすぐまた来るのですが)。
この印象が僕の中での「『ダブル・ダブル』はライツヴィルシリーズのエピローグ」観につながっています。

ところが新訳版での再読ではそのような印象はほとんどありませんでした。ラストの部分を旧訳版と見比べてみたのですがさほど違いはなく、この印象の違いがどこから来ているのか少し不思議。
もしかすると、上述した「新訳版ではリーマの神秘性が薄い」ことが作用して作中リーマが普通の人になってしまうことの喪失感のようなものが小さくなっているのかもしれません。