21/11/04 【感想】暗黒公使

夢野久作の長編『暗黒公使ダーク・ミニスター』を読みました。

暗黒公使ダーク・ミニスター
闇属性・悪魔族・星6
攻撃力2200/守備力1400

って感じのタイトルですがほんとにこのルビが振られてます。黒き森のウィッチでサーチできます。

実は今回読むまで聞いたこともなかった作品でした。ちくま文庫版の夢野久作全集に収録されたもの(第7巻)を図書館で借りて読んだのですが、この巻だけ明らかにこれ以前の巻よりも本がきれい。直前の6巻とかボロボロだったのに。
夢野久作の長編にあまりいい印象がなかったこともあってさほど期待しないで読み始めました。「おっ結構面白いぞ」と読み進めながらも色々ツッコみどころを考えてしまっていました。

ですが、それらは全部最後にひっくり返されることになります。
この『暗黒公使』は時代を先取りした、夢野久作らしい「探偵あしらい」の先進的な構想が輝く長編でした。本格ミステリの歴史に一石を投じていたかもしれない作品です。

あらすじより下はネタバレ感想です。

大正九年二月二十八日の午後零時半頃のこと。パリに住む元・警視庁捜査一課長の狭山九郎太の家に一人の不思議な青年が訪ねてきた。
「ジョージ・クレイ」と名乗る彼は、一昨年十月の新聞に掲載した狭山の助手の募集広告を手に、助手として雇ってもらいたいのだという。雇ってもらうために有機化学を独学で勉強した彼が、一番興味を持ったのが毒物だということも狭山の関心を引いた。それもわずかしか発行していない狭山の著書「毒物研究」によってというのだ。
身寄りもなく住む家もないジョージは、それまで所属していた「バード・ストーン曲馬団」を逃げだしてきたという。その「バード・ストーン曲馬団」は狭山にとっては自分が警視庁をやめるきっかけとなった事件に関わった存在だったのだ。
ジョージにとっては「曲馬団は自分の両親を苛め殺した敵」なのだという。一度は彼の雇用を躊躇った狭山だったが、彼の話に引き付けられていくのであった……

本作は1933年に刊行された書き下ろし長編です。
1933年といえばアメリカではエラリー・クイーンが『アメリカ銃の謎』『シャム双子の謎』『Zの悲劇』『レーン最後の事件』を書いた年。彼がミステリ史に燦然と輝く歴史的傑作を4作も発表した奇跡の1932年の余韻が残る年ですが、当然この頃はまだ中期以降のライツヴィル・シリーズは影も形もありません。

話がそれましたが、本作のすごいところはその語り手兼探偵役の使い方です。
警視庁にその人ありと言われた名警視・狭山九郎太を語り手として、探偵役となった彼の視点から語られる事件は夢野久作一流のハッタリでたびたびひっくり返ります。
新情報が入るたびに霊感を働かせて推理を閃きストーリーを組み立てて「こういうことに違いない」と確信し読者にもそう信じさせる語り手・狭山。モース警部みたいなやっちゃなと思いながら読んでいました。
『ドグラ・マグラ』で語り手たる「私」がたびたび巨大な陰謀論的推理を組み立てては熱中していくさまは「私」が狂気の世界に足を踏み入れているがゆえの表現なのだと思っていたのですが、この『暗黒公使』の名探偵・狭山も同じことをやっているところを見ると夢野久作は素で探偵役の仕事として書いていたのかもしれません。

しかし本作は結局「探偵役である狭山は秘密結社への復讐のため利用されていた、狭山の預かり知らぬところで正義の一団は秘密結社の首領を討ち果たすことを計画し、それに成功した。結果的に狭山はそれに協力していた」という結論になります。
その利用の仕方も狭山の探偵能力ゆえに現場のわずかな証拠からここへ辿り着くだろう、この情報だけ残せば狭山だけは読み取ってこのように行動してくれるだろう、と「名探偵ゆえのあやつり」です。
この「推理力を利用して探偵を操る」ことを真犯人が行う、というテーマを後にエラリー・クイーンが追及することになるのですが、正義が勝つハッピーエンドを描きながら「あやつり」テーマを実装しているのが目から鱗。
諸々の推理小説という手続きに内在する問題に対する意識とかを全部一旦忘れてもらうとして、「探偵役が利用される」テーマのうまみってなんだろうと考えると、めちゃくちゃ面白いってことだと思うんです。
探偵が操られるって推理小説において究極のどんでん返しですからね。この作品も結果的にどんでん返って真相が示される形で極上のエンタメへと昇華されています。

『ドグラ・マグラ』がアンチミステリの傑作として高い評価を受けていますが、この『暗黒公使』の歴史的価値についてももっと語られてもよいのではないかと思ってしまいました。