21/05/04 【感想】偶然の聖地

僕は仕事でシステムエンジニアをやっているのですが、仕事中にやる趣味のひとつに「障害情報の野次馬」があります。
社内データベースにまとまっている、システムトラブルとその原因と解決、そしてそこに至るまでの調査のプロセスを読むという勉強5割・野次馬5割の趣味。
中でも好きなのが、誰も気づかないようなシステムロジックの盲点を突いたバグや、奇跡のような偶然が揃った特殊な条件で顕在化したバグ。前者はよくできたミステリを読むような、後者はバカミスを読むような楽しみがあります。そしてホームズ式に可能性を全て潰していった結果、とんでもない珍妙な解釈が結論となる調査もあって、アンチミステリを読むような楽しみに出会うこともあります。昔「宇宙線によってハードウェアのメモリが書き換わった」という結論を見たことがあります(ホントらしいです)。

宮内悠介『偶然の聖地』を読んで、作家になる前はソフトウェアハウスでプログラマをしていたという作者も「バグのおかしみ」を好む人なのだろうな、と思いました。

「小説とエッセイの中間」という依頼だったらしいのですが、基本的に読んでいて受ける印象は完全に「小説」寄り。注釈部分だけ「エッセイ」。
ただ小説とエッセイの中間を志して書かれた文章に平気な顔をして虚構が放り込まれて話がどんどん脱線していき、それどころか舞台設定すらもどんどん脱線していくライブ感がとても面白い。
そうそう、この本は作者の注釈がついていて、作中のテクニカルタームについて補足がついていたり自身のどんな経験が元ネタになってるとか載ってたり「このキャラはもう出ないので覚えなくていい」とかも書かれています。そういうゆるい本です。

注釈部分によく「グラップラー刃牙」が出てくるのですがこの話の読み口はだいぶそれに近く、プロットという骨格にうんちくを肉付けしていくうちに肉がどんどん肥大化し、やがて骨のないところも肉だけで無理やりつなげてしまうようになる感じ。こういうのが好きな人にはたまらないものです。装飾が逆にメインになってしまう、というのは日本三大奇書のひとつ『黒死館殺人事件』の奇異性を説明するのによく使われる表現ですが、僕はこの『黒死館殺人事件』が大好きなんですよね。

最初は存在すら確定していない幻の名峰「イシュクト」を目指す旅人たちの物語として始まる本書ですが、作品の根幹を成す設定である「世界医」の存在が登場して物語は大きく舵を切っていきます。これは世界がかかった病を治療する医者という意味でのネーミングなのですが、やっていることはむしろ「世界に残っているバグのデバッグ」。
この世界を創造主によってオブジェクティブ・ヘブライ語で書かれたプログラム(ないしはそのインスタンス)と捉え、そこに残るバグを取るというテーマが面白い。そこに「バグは何か、仕様とは何か」という命題が絡んでくるのがまた良いんですよ。
たびたび脱線しながらライブ感抜群で乱歩する連載ですが、世界各地から様々な因果を持つ登場人物たちが導かれるように偶然の聖地・イシュクトに集っていくストーリーの幹がとにかく力強く、クライマックスへ向けて静かにワクワクが高まっていく感じがとても好みでした。ここらへんの読み口は久生十蘭の『魔都』なんかに通じるところがあるかも。あれは全編口述筆記によって書かれたらしく、それがあのノリと勢いに任せたライブ感に繋がったのだろうと思っていますが、本書はエッセイが物語と並走することによって「肉声のライブ感」が生まれている気がします。

あらすじより下は微妙にネタバレぎみです。

小説という、旅に出る。

国、ジェンダー、SNS――ボーダーなき時代に、鬼才・宮内悠介が届ける世界地図。本文に300を超える「註」がついた、最新長編小説。

通常、物語の終盤で物語世界における大きな課題に直面したとき、主人公たちはそれに立ち向かって何らかの決着を付けます。そうする運命になっているものですし、そうしたからこそ主人公として物語が書かれたのだと人間原理風に言うこともできましょう。なんですけど、宮内悠介の作品に出てくる登場人物って結構そこで自分の都合を優先するというか、世界の課題をなあなあですませることが結構あって、僕はそれが嫌いじゃないです。「されど日々は続く」って感じの終わり方が多くて、昔からこのタイプの幕引きが好きなんですよね。