見出し画像

鳳閣・調舒の伝達に的(まと)はあるのか

今年庚子年は日干支戊の私にとっては鳳閣星がテーマの年になります。私の陽占には鳳閣・調舒(伝達本能)がありません。算命学を学びはじめてはじめて鳳閣星が回ってくるので、鳳閣とはどんなものなのか体感を楽しみにしていました。伝達ってなんだろう、洩気ってどんなもんなの。

鳳閣星の教科書で言うのキーワードは間接伝達、客観的伝達、風流さ、のんびり、おおらか、本能的、食神、生きる喜び、子供 そんな言葉が並びます。

言葉では理解していました。鳳閣星持ちの方と接してなるほどと思ったこともありました。でも自分で実感してないことに腑に落ちたと言えません。

庚子年も半分近く過ぎやっと体感したこの感じ。私の体感をこちらに書きたいと思います。

司禄中心(鳳閣調舒無し)の私の通常のリアクションは的がある。何か食べて美味しいねと言うにも、誰かと一緒におしゃべりするにも、大勢の中にポツンと存在するにもいつも相手というよりかスクリーンに対して反応しているのが無意識の通常運転なのです。(うまく伝わるかな)自分が存在しているのは周り(人や環境)があってこそ存在できるのでその周りに自分を影響させているしさせられています。しかし鳳閣星の回る今年に関してはその自分の周りのフィルターというか的が消滅したような気がします。的がなくて何をぶつければいいのかと思いますがそこには純粋な思いやら体感やら。

鳳閣調舒持ちの方はおしゃべりであると言われたりしますが、おしゃべりの相手は的でであって的でないのかなあと思い巡らしています。
何か自ら生み出すことも得意と言われていますが(歌や音楽、絵画やダンスなど)的を絞ってリアクションを求めて生み出してしまうと、鳳閣調舒の持つ純粋な伝達、洩気は失われてしまうのではないでしょうか。

とにかく私は純粋な伝達に憧れているのでしょう。
鳳閣調舒が無い私はこの2年そして60代に大運で巡ってくるときにその体感を少しでも感じてみたいのです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?